五和から島田へ
五和側線
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第1話 鉄道か、索道か
自分がその路線を知ったのは、
【RM LIBRARY 96 大井川鐵道 井川線】(白井昭 著、ネコ・パブリッシング、2007)という本でした。
題名のとおり
井川線の歴史について詳しくまとめられたこの本の中に、
「大井川流域の鉄軌道」と題された簡易地図が載っています。
それは大井川流域にかつて存在した(及び今も存在する)鉄道、軌道、索道、未成線などを一つの地図上に記した、
まさに
大井川鉄路オールスター図鑑とも言える地図です。
そして今回の物件、
【五和側線】について。
地図上の五和駅のあたりをよく見ると、駅から本線を外れて南東方向へ緩やかなカーブを描く線が描かれています。
そして僅かに進んだ所で駅を表す〇印に行き当たり、その先は索道となって島田市向谷へと繋がっていました。
(索道とは、空中に渡したワイヤーに吊り下げた機器に人・荷物等を載せ、輸送する方式のこと。スキー場のリフトやロープウェイが分かり易い。)
しかしタイトルが示すように、この本の主役はあくまで井川線。
地図の説明文などは一切無く、路線名も用途も読み取れないという どうにも雲を掴むような状態でした。
そして、現在の五和駅。
名称を
【五和駅】から
【合格駅】へと改めた現在の駅舎の中には、こんな情報が。
Click!
クリック後の図は【戦前、戦後をふりかえる 村の生活と文化/大石 孝 著・平成23年】より
【昭和初期(昭和20年以降)の竹下商店街】と題されたその紙には、当時の駅周辺の様子が手書きの地図で描かれていました。
そしてその左下には
ハッキリと
引込線(S18〜24)の文字が。
(昭和18年は1943年)
この年に何があったのかを
【大井川鉄道30年の歩み】(大井川鉄道株式会社/編 1955)で探してみると、
【昭和一八年六月三〇日 五和構外側線敷設認可】
という記述がありました。
(この記事のタイトル“五和側線”は、ここから付けました。)
しかし残念なことに、五和側線についての情報はこれだけだったと記憶しています。
さてさてどうしたものか・・・。
こういう時は、古地図&航空写真から追ってみます。
今では姿形も見えないような廃線跡を追うとき、航空写真はとても情報量が多い。
そんなわけで、該当の路線を想像するのにとても有用な写真は、あっさり見つかりました。
Click!
国土地理院 航空写真より
昭和38年(1963年)頃の写真。
廃止とされる年から14年後です。
道路や農地に用地転用された五和側線が、五和駅の南から始まり ゆるやかな左カーブを描いて終着駅のような広場に吸い込まれていくのが見て取れます。
以降、この側線の終端となる駅を、当地の住所から仮に
“島駅”と呼ぶ事にします。
この
島駅、写真を見るとかなり広大な貨物ヤードであったかのようですが、実際はどうだったんでしょうか?
そしてこの
島駅からは、島田市にかつてあった
【島田軌道】の終点、
【向谷】まで索道が通じていたはずです。
(
島田軌道とは木材輸送を主目的とした人車鉄道(手押しの鉄道のこと)で、島田市向谷から国鉄東海道本線の島田駅までを結んでいました。)
この
索道路線と
島駅について、さらに調べてみましょう。
前述の
“五和引込線”というキーワードから、もう一つの情報を見つけました。
それは当地の
金谷コミュニティ委員会が発行している広報誌
【ほほえみ】No.162号。(←注:リンク先はPDFです)
うまちゃんの「五和日記」と題された小さなコラムに、
“大鉄 五和駅引き込み線と島〜向谷間の索道”という記事が載っていたのです。
そこには 施設や位置、歴史等が簡略的に紹介されていました。
この記事によると、
「引き込み線は昭和18年6月30日に認可を受けて敷設され、昭和26年中部配電(株)の解散等により運用中止となりました。」うまちゃんの「五和日記」Dより
と書かれています。
中部配電(株)とは昭和17年〜26年にかけて営業していた電力会社の事で、現在の中部電力にあたります。
また、記事は
「索道は、向谷までの間に鉄塔が300m位の間隔で立ち、大井川の河原には鉄塔の土台3基が近年まで残存していました。」同上
と続いています。
陸地の鉄塔跡はさすがに現存していないと思われますが、だいたいの位置を推定して現地に行ってみたら何か見つかるでしょうか…?
大井川中の鉄塔跡については心当たりがあるので、次回で紹介できたらと思います。
さらに詳しい情報を得たかった自分は ダメ元でこの記事を書かれた方にコンタクトをとり、参考にされた本や資料などがあれば教えてほしいと聞いてみました。
すると、特に参考となる資料などは無く ご自身の記憶と地元の記録から記事を書いた、との返答を頂きました。
さらにいくらかのメールのやり取りをした後 直接お会いしてお話を伺ってきたので、次話ではその詳細及び現地の写真などを紹介します。
とその前に、この五和側線ができた理由などをもう少し掘り下げてみます。
頼ったのは島田の木材関係の資料。
【島田木材業発達史】(紅林 時次郎 著、島田木材協同組合発行、昭35)
当時の大井川を取り巻く状況については それこそ本が一冊書けるような情報量なので、ここでは五和側線に関係する部分だけを見てみます。
五和側線が出てくるのは
「三十八、木材事業の統制」(89頁)のところ。
「発電所起業者側へ対し要求していた既得権解消に伴ふ代償金四十万円が支払れるに至った所、
〜略〜
其の代償金を以て大井川鉄道五和駅から大井川岸牛尾迄で支線を敷設し、牛尾向谷間の大井川へ索道を架設して大井川上流から陸送して来た木材を向谷へ搬入するに至った。」(島田木材業発達史より)
また、これにより
木材バラ風景 や
大井川の流れを埋め尽くしたという木場の壮観 も再び見ることは出来なくなった、と続いています。
この部分、前後の記述も併せて読んでみたわけですが、
「大井川流域のダム建設やその水の利用(導水による水量の減少)により今後木材の水運はできなくなる(既得権解消)が、その代償金で五和側線〜索道を建設。
以降は上流域で伐採した木材は大井川鉄道により五和側線へ陸送の後、索道を用いて向谷へ運ぶ流れになった」
というように理解しました。
となると五和側線〜索道の架設は、大井川の歴史書の大部分を占めるであろう
“川狩り”の、終了の合図と言えるかもしれません。
(川狩りとは、木材を川に流して運搬すること)
そして
「三十九、木材統制解除、自由営業へ」(93頁)の項目には、索道の終了についても書かれていました。
「この昭和二十七年十二月二十八日牛尾向谷間の大井川へ架設してあった架空索道は関係者が協議の結果廃止することとなり、戦前から戦後へかけて過去十ヶ年運材に大きな役割をなしたが翌二十八年三月取外されて終った。」(島田木材業発達史より)
終戦を経て、戦時下に公布された木材統制法が解除され木材業者が自由営業となった事、大井川の総合開発計画として今後は発電に重点を置いていく事、などが大きく影響したようです。
かくして、大井川上流域からの木材輸送の終焉を見届けるかのように、五和〜向谷間の鉄路も幕を閉じたのでした。
とまあそんなわけで、
五和側線跡、行ってみます!
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