消えた隧道

境川隧道

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第1話 第2話



第1話 西の隧道が死んだ。


ある古地図を見ていました。
それは明治41年に測量され、昭和8年に要部修正が成された、
「5万分の1地形図・千頭」という地図。
大井川右岸にある平谷地区の辺りに、境川という支流が流れ込んでいます。
この境川を少し遡り、瀬沢(瀬澤)地区の西の外れ辺りに至った所で よく目にする地図記号を見つけました。

境川隧道
5万分の1地形図・千頭より

隧道(トンネル)の記号。

このトンネル前後の道路を示す線は片側実線・片側破線となっており、これを明治時代の地図記号に照らし合わせると道幅2m以上3m未満の町村道、という事が分かります。
ただの徒歩道ではないとしても、当時の交通事情から考えてせいぜい荷車か牛、馬あたりが通る道だったのでしょう。

さてこの該当部分の道路、これを現在の呼び名で言うと、

一般国道362号線。

そう、知る人ぞ知る酷道362号線に当たります。
ちょうどこの地点から西(愛知県方向)に向かって進むと、幅員は狭く、見通しは悪く、落石・倒木の危険があるという、酷道の名に恥じぬ(?)難所が待ち構えているわけです。

しかもここは 一般国道473号線 との重複区間でもあり、道路マニアならば知るものはいない(かどうかは分かりませんが)、とにかくそんな道路なのです。

境川隧道
国土地理院地図より

この辺りを東西に横切る道は、古来から重要な交易路でした。
いずれ別ファイルにて取り上げる事もあるかもしれません。

で、このトンネルがあったであろう場所を現在の地図に記すと、この位置。

境川隧道
国土地理院地図より

現在の境川ダムの入り口あたり。

結論から言ってしまうと、現在はここにトンネルなどありません。
それこそ、跡形も・・・。

実際、町史などの資料でも このトンネルについての記述を見たことがありません。
タイトルに書いた “境川隧道” というのも、自分が勝手につけた呼び名です。
あの古地図以外に、全くの情報無し。
それほど小さいトンネルだったのだろうと推察します。

、いうわけで。
昔この近くに住んでいた に聞いてみました。
すると確かに、ここにはとても短いトンネルがあったとのこと。
西側に抜けてすぐの所に境川の方へ降りる分岐があった、とも。
しかし何しろ小さいトンネルで、天井も低く危険だという事で開削され現在のような姿になったようです。

そんな感じで一応の証言は取れたので、あとは存在した時期を知りたいところ。

なんとか時間を作って川根本町役場本庁舎横にある山村開発センター1階の図書室で資料漁りをしたところ、この瀬沢地区に伝わる昔話集を見つけました。
そのうちの一冊【続 瀬沢と平谷の昔話 境川のはなし】の中に、「道路の開拓」という項目があります。

瀬沢地区から西隣の久保尾地区へ繋がる道についての情報だけを拾っていくと、

「それより松坂と言はれた急坂を大日峠へ上り名木「大日の松」の根元を今度は猿坂と言う急坂を河内川へ下りた。現在ダムとなって居る場所である。
河内川四十八瀬と言って平谷からは四十八度川を渡って瀬戸川、西又川の合流点広尾坂へ着き、そこから西又へ分れ又、久保尾、田河内方面へ行った。」
続 瀬沢と平谷の昔話 境川のはなしより

当時の地名や字名については完全には把握できていませんが、これはまだ道路整備のされていない明治初期頃の峠越えの様子を伝えたものらしい。
これによると例のトンネルのあった場所を大日峠と呼ぶようです。
そこを超えた後、一度 境川(文中では河内川)まで降りることを強いられるほど、昔から急峻な山肌であった事が伺えます。

「今後は瀬沢、久保尾間に道路を開く事が急務であると考えた。〜略〜
明治二十二年春着工、三年を経て明治二十四年春完成した。瀬沢、平谷間約八丁(1キロ)瀬沢、原山間、一里二十二丁(約六キロ)そして待望の荷車に因る運送が始まった。カタコト、カタコト新街道に響く荷車の音は瀬沢、平谷、久保尾方面の村々一帯に時代の夜明けを告げる音だった。」
同上

トンネルについては一切触れられていませんが、おそらくこれが始まりだと思われます。

余談になりますが、この荷車道の開通によって 瀬沢・平谷地区は交易の拠点として急速に発展したようです。
戸数はもとより商店、飲食店も次第に増えていったとのこと。
医院、旅館、運送屋、牛乳屋、面白い所では百貨店、ミシン教習所、馬繕い場(馬を専門に診る施設)などができたと書かれています。
【川根本町の古道】(中川根 町史研究会、平成29年発行) によると、街道開通前の元禄時代には瀬沢地区の戸数が17戸〜22戸だったのが 最盛期には86戸までに増えたとか!

さてトンネルの話に戻りますが、あとは消えた時期を知りたい所です。
しかし、どうにもそれらしい情報にはたどり着けませんでした…。
周辺の状況から当たり前に考えるならば、境川ダム建設用道路の整備によるものか、国道362号線(あるいはその旧道)の整備によるもの、のどちらかではないでしょうか?
前者であれば境川ダムの着工年が1939年(昭和14年)なのでそれより前の数年間、と推測できます。
後者であれば、公的な記録がどこかに残っているのかもしれません。
それ以外の理由ならば・・・どうしましょ?


とまあそんな感じで、この 境川トンネル跡地 行ってみます!






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