消えた隧道
境川隧道
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第1話
第2話
第2話 目にしているのは峠越えの姿だ。
前後の道の様子はすっとばして、いきなり現地です。
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写真クリックで出るように、これは瀬沢地区から西の久保尾・春野・森方向へ向かっている状態。
ご覧のとおり、境川トンネルがあったと思われるこの場所はかなり開かれています。
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もう少し進んだ所からの景色がこちら。
まさにこの地点から、道幅が狭くなっていくわけです。
この写真では小さくて見えませんが、
【102.0】のキロポストがありました。
そして左に見切れていますが、
【川根境川 起点】の看板を確認。
さらに左を向くと、
境川ダムへと下っていく急坂が。
昔はこの斜面を、九十九折れの山道で上り下りしていたのでしょう。
このちょうど真下あたりに
中部電力 大井川発電所からの導水管があり、水が送られてきているはず。
そのルート上にある
【長尾川水路橋】や
【中津川水路橋】については、またいつか別ファイルで紹介する予定です。
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カーブミラーには
【一般国道362号線・静岡県】のシールが貼られています。
切通でできた境川側の山肌には、
中部電力の境界標が立っていました。
かつてのトンネルの存在を示すような何かがあればと周囲を捜索しましたが、特にこれといった発見もなく。
何らかの加工跡のある石ですら怪しく見えるのですが、おそらく無関係。
ここで北側(カーブ内側)の山肌に目をやると、現行の法面の上の落石防止ネットのさらに奥、
コンクリート吹き付けされた山肌が見えます。
しかもかなり古い感じ。
もし仮に
トンネルがもっと高い位置にあったなら。
当時の荷車街道が後の時代に改修されて、
各所にコンクリートの補強がされていたなら。
実際、古地図と現行道路とでは九十九折れの回数も違っているし、
峠の僅かに違う場所を超えていたなら。
そんな
妄想も、しないではありませんでしたが・・・。
周りの地形を見ると、
ここより高い位置ではトンネルにする必要性が薄い(トンネルを掘るより開削した方が早い)ように思える事や、
地図の等高線を見比べても位置のズレは考えにくい事から、トンネルの形跡は全く残っていない、と考えるべきでしょう。
残念ながら…。
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最後に一つ。
山肌にぽつんと刺さっていた静岡県の用地杭をどうぞ。
*** 8月追記 ***
大井川鐵道の公式な歴史本といえば 昭和30年発行の
【大井川鉄道 三十年の歩み】が有名(?)です。
昭和30年発行・大井川鉄道 三十年の歩み
しかしこれより15年も前、昭和15年6月に発行された
【我が社の足跡】という本があるのをご存知でしょうか。
昭和15年発行・我が社の足跡
まあ、自分もつい最近知ったんですけど。
先日、この本を見させて戴く機会がありました。
内容的には、大井川鐵道株式会社創立時の15年間を振り返った回顧録・パンフレットといったところ。
上述の
【〜三十年の歩み】の内容の一部にも、ここから引用されている部分がありました。
そして、この本の中に
とても興味深い内容を見つけました。
それは、
大井川鐵道の開通によって千頭方面の“御料林”(皇室所有の森林)の開発が一気に進んだ〜という流れに続く部分の記述。
「周智方面の分も杉の澤から麥島まで軌道が敷設されて、其處まで搬出の上一昨年から拂下げ(払下げ)が始まり、下泉驛から發送されている。この方面の出材も將來相當に増加する見込だそうである。」(我が社の足跡より)
ここに書かれた
周智方面(現在の周智郡)〜下泉駅までの木材輸送ルートというのが、第1話から取り上げている
久保尾〜瀬沢ルート(現国道362号ルート)の事であれば、境川隧道が存在した期間を知る手掛かりになるかもしれません。
この情報について、少しづつ調べてみました。
まず文中に、
“杉の澤から麥島(むぎしま・現在の浜松市天竜区春野町川上字麦島)まで軌道が敷設されて”とありますが、これについて。
国土地理院地図より
上の地図に記した赤いルートを通っていた木材搬出用の軌道こそが、その正体。
【 熊切森林鉄道 】
熊切森林鉄道とは、天竜川水系の一級河川
【気田川】に流れ込む、
【杉川】という支流沿いに敷設された森林鉄道です。
この
杉川の奥地に広がっていたのが
“奥山御料林”と呼ばれた、皇室所有の森林でした。(現在は国有林となっている)
「五万分の一 千頭」より
この奥山御料林で切り出された木材を搬出するため 杉沢沿いに軌道が敷かれ、下流の麦島(奥村)にあった貯木場へと運ばれていました。
「特撰 森林鉄道情景」(西 裕之 著 2014年発行 講談社)によると、
「帝室林野局名古屋支局気田出張所によって昭和13年(1938)着工され、昭和14年(1939)8月、奥村〜奥山御料林間5,534mが完成し、木材輸送が始まった」(特撰 森林鉄道情景より)
とされています。
その後は他路線に一部のレールを転用され そこだけ牛馬道に格下げになったり
(昭和20)、再びレールを敷いて復活したり
(昭和25)と紆余曲折があり、最終的には6,697mの森林鉄道となったとのこと。
そしてその終焉について、
春野町史はこう書いています。
「また熊切森林鉄道は、昭和41年(1966)に自動車道への改良工事に着手し、二年後に完成している。」(春野町史 通史編 下巻より)
つまり木材搬出そのものが終了したわけではなく、トラック輸送に切り替えるための森林鉄道廃止、というのがその理由であると。
かくして杉沢奥地からの輸送を一手に担った森林鉄道は、現在の杉沢林道という自動車道に姿を変えました。
今も橋梁や橋台、保線休憩所などの遺構がわずかながら残っており、その痕跡を伺うことができるようです。
ちなみに杉沢沿いにあるのになぜ
“熊切”森林鉄道なのか(熊切川という名の川は一山超えた南側を流れている)というと、この辺り一帯が元々
“熊切村”だったから、という理由のようです。
と、
熊切森林鉄道についての説明を終えたところで、全体を見渡せる地図を用意しました。
国土地理院地図より
先ほどの
「我が社の足跡」の一文に戻ると、森林鉄道についての記述の次に
「其處(そこ。この場合は麦島)まで搬出の上 一昨年から拂下げ(払下げ)が始まり〜」(我が社の足跡より)
と続いています。
“払下げ”とは御料林の一部を
民間に売り下げる事であり、この場合は杉川奥地の
“奥山御料林”(の一部?)
が払い下げられたという事になるのでしょうか。
しかし
関東森林管理局のサイトにある
国有林の図面によると、
【静岡森林管理署】天竜の所の片番号33・35が、この地域(主に入手山以北)が今でも国有林である事を示しています。(戦後、御料林はすべて国有林に移管されました。)
「我が社の足跡」では
「一昨年から」となっているので
昭和13年(1938年)前後の事を書いているのだと思いますが、
昭和13年と言えば 前述のように熊切森林鉄道が着工された年。
とすれば、
民間に払い下げる事が決まっているのに
御料林の管理経営を行っていた帝室林野局の主導で敷設されたことになるわけで、何だか変な感じです。
情報がまだ足りないのか、自分がどこか勘違いしているのか…?
御料林の
民間への払下げ・整理処分は明治30年代になって全国で活発に行われ、ここ春野町でも
4件の“下げ戻しの出願”が行われた事が、春野町史に書かれていました。
“払下げ”が
“売り下げる事”であるのに対し、
“下げ戻し”とは、
“民間に無償で返還する事”を意味します。
今回の舞台である“奥山御料林”についても明治31年4月付で出願されているようですが、様々な理由から、明治35年1月付で不許可とする決定が下されたようです。
ここから昭和13年までの間にどんな交渉が行われたのか、残念ながら、この辺りの史料をまだ見つけていません…。
次は、
「下泉驛から發送されている」(我が社の足跡より)という点について。
今回の情報のカギである
熊切森林鉄道が敷設されていた杉川は、
気田川の支流にあたります。(上の地図参照)
本来ならば、
同じ気田出張所管内にある 下流の篠原貯木場へ集材するほうが都合が良かったはずです。
この
篠原地区というのは ちょうど杉川が気田川に合流する辺りにあり、
気田森林鉄道という長大路線の起点にもなっていました。
当時の気田出張所事務所(後の気田営林署)があったのも この篠原地区です。
しかし麦島に集められた木材はそちらへは行かず、トラックではるばる峠を越えて、隣の大井川から輸出されるルートを選択しました。
その理由は単純で、
道路が整備されていなかったから、という事のようです。
春野町史にこんなエピソードが載っていました。
「(熊切森林鉄道への)機関車の搬入は、篠原〜川上間の県道が未整備だったので、大井川鉄道で下泉駅まで運搬し、駅で分解してトラックで現地まで運んだという。」(春野町史 通史編 下巻より)
熊切森林鉄道は、開設当初からガソリン機関車による牽引を行っていました。
完全に独立していた この山奥の路線に、機関車をバラして
下泉駅からトラックで搬入したというのです。
地図にも見られるように杉川は激しく蛇行を繰り返しており、それに沿ったルート取りを強いられる篠原〜川上間の道路整備が遅々として進まなかった事は、容易に想像できます。
それに対し、瀬沢・下長尾地区へ抜ける道は同じような難所続きではあるものの、距離も短く、整備も年々進められていたようです。
明治中期以降の旧川上村〜熊切村の頃の人々の生活について見ていくと、この交通の便の差によるエピソードを多く目にする事ができます。
そしてそれらは、
大井川流域に属する上長尾・下長尾地区との結び付きを強める結果へと繋がっていくものでした。
例えば、郵便や物資の輸送において距離が近い(時間が短くて済む・危険が少ない)事。
街道沿いに宿や店が増え、とても繁盛した事。
人々の往来が盛んになり、婚姻・縁組をする者が増えている事。
などなど。
下長尾、上長尾にお住まいの方で「この方面に親類がいるよ」と言う人も多いのではないでしょうか。
さてさて、第1話で見つけた
境川沿いの荷車道開削の歴史は、東西の人々を結ぶ交流の歴史に
大きな影響を与えた出来事でもあったことがわかりました。
ここでもう一つ、
「特撰 森林鉄道情景」(西 裕之 著 2014年発行 講談社)にある文章を、少し長めではありますが引用してみたいと思います。
「元々は同じ気田出張所管内とはいえ、気田森林鉄道の篠原貯木場と結ぶ道路が当時は整備されていなかった。現在は舗装された国道362号線が春野町と中川根町を結んでいるが、昭和50年(1975)代まで未舗装の曲がりくねった山道が奥村から下泉まで延々と続き、それでも中川根に運ぶほうが容易ということから、気田営林署となった昭和26年(1951)まで、木材は東側の山並の峠を越して大井川鉄道の下泉駅付近まで運ばれ販売されたということである。」(特撰 森林鉄道情景より)
なんかもう、知りたかった事が全部書かれている感じですね。
実はここまで、一つの
疑念を持っていました。
それは、今回の情報である
“周智方面からの木材輸送”というのが、それこそ
調査対象であるトンネルとは無関係のルートを通る話ではないのか?という可能性についてです。
というのも、川上から下泉へ抜ける道筋には、久保尾地区から二本松峠を越えて下長尾に至る
“山越えルート”を通る方法もあるからです。
国土地理院地図より
現在は
【町道下長尾向井線】と呼ばれ、狭いながらも舗装が完了しています。(地図中のオレンジ色の線)
古くは静岡・藤枝方面から
秋葉神社へ詣でるための
秋葉街道の一つとしても利用されていたようです。
明治の頃には 既に荷車が通れるような道であったようですが、確証は得られていません…。
なんにせよ、上で引用した内容が正しければ これは杞憂に終わりそうです。
とにかくこれで、今回の紹介物件である境川隧道があったであろう道筋を、
昭和初期には木材輸送のためのトラックが通っていた事が判明しました。
ここで第1話に書いた話を思い返してみると、トンネルはとても小さく天井も低かった、とのこと。
そもそもこの街道を最初に整備した段階では 荷車を通す事が目的だったわけですから当然とも言えます。
とすると、
木材を満載したトラックを通すためにトンネルを削り取ったのでしょうか?
であれば その工事が行われたのは、この街道が自動車道として整備された時、という事になるのでしょう。
やはりここは、具体的に
“トンネルを開く工事をした”という史料を見つけたいところですねぇ…。
今回の情報で昭和13年(1938年)にはトラックの往来があった事だけはハッキリしました。
もちろん これはこれで大きな収穫ですが、結局のところ境川隧道が存在した時期を特定するには、まだ情報が足りないようです…。
*** 追記 終わり ***
とまあこんな感じで 当時を偲ばせる物は何も発見できませんでしたが、このサイトを始めていなかったら このトンネルの存在を知ることも、ましてや思いを馳せる事もなかったでしょう。
これからもこういう小さな“埋もれた歴史”を電子記録に残していけたのなら、いずれは大きな果実になるのかもしれないと期待しつつ。
名所File No.07
境川隧道
営業時間:営業終了
所在地:静岡県榛原郡川根本町下長尾
交通アクセス:大井川鐵道 下泉駅より 徒歩40分