3基の墓標
五輪の塔
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第1話 「五輪の塔」を御存じであろうか。
「そうそう、あそこの丘の上に 五輪の塔 があってね。」
そんな話を聞いたのは、
FileNo.1「神尾弁天」についての調査で 島田市高熊にある
光明院を訪れた時でした。
「趣味で大井川流域のあれやこれやについて調べている。」という話の流れになった時、ご住職がふいに口にされた、何という事はない雑談のようなものだ。
五輪の塔と言えば、だいたいこんな形。
よくお寺や墓地などで見かける事があると思いますが、そもそも五輪の塔とは 主に墓石や供養塔に使われるものです。
平安末期から各地に建てられており その歴史は古いわけですが、インドや中国に似たような形状のものが無い事から
日本独自のものではないかと考えられているそう。
方形(四角形)、円形、三角型、半月型、団形に削り出した素材を積み重ねて建てられており、それぞれが
地 水 火 風 空の五大を表すといわれます。
上になる2つ(半月型と団形)は一つの素材から作られている事、各部に梵字が刻まれている事、などが一般的な特徴ですが 建てられた時期や場所・宗派などによって細かい違いがあります。
国土地理院地図より
今回 ご紹介する
五輪の塔がある場所とは、
島田市福用。
大井川鐡道福用駅から、徒歩5分くらい。

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GoogleMap 衛星写真より
大雑把ではありますが 図示した範囲が小山のごとく盛り上がっており、この上に建立されているよ、という話。
赤のラインは福用地区内を通る かつての
川根西街道。
大井川に近い方にバイパス道が作られた現在、この道は地元住民の生活道としての役割を担っています。
とりあえず現状を見てみようと、さっそくその帰り道に寄ってみたわけですが…。
時期が悪かったこともあり 丘全体がまるで密林。
塔はおろか、そこへ取り付くための入り口すら判然としない ただの小山にしか見えない状態でした。
この時は神尾弁天のレポートが佳境を迎えていた事もあって、現地調査は 植物の枯れる
冬を待つことにしました。
そして
2025年1月。
再び現地へ向かってみると。
現在地
うーーむ…。
正直、これでも ずいぶん
マシな方。
写真奥側(北東側)にはNTTの電話交換設備があり、丘をスッパリ切り取ったような立地になっています。
必然 向こう側は一面の崖になっており、丘の上へのアプローチは写真の手前側(南西側)にある可能性が高そう。(南東、北西は共に道路に面していて、どちらも急斜面)
んで、さっそく近づいてみると…。
現在地
密林を思わせた小山の外套は、こうして見れば ほとんどが蔓性のもの。
葉こそ落ちてはいるが、今日も元気に生きているのでした。
そして同時に理解したのは、ここには
“長い間、人の手が入っていない” という事。
今回の調査も、難航しそう…。
はてさて、どうしたもんか。
丘の上へ至る道筋など、どこにも見いだせませんよ。
現在地
丘を回り込むように奥へ進むと、崩れかけた石垣が目に入りました。
登る道があるとすればここ…のような気もするが、植物の生え方からして 全くそうは見えない。
このままでは どうにもならないので、とりあえず少しでも植物が少なく、開けている場所から取り付いてみた。
そして一段上がったところの状態がこれ。
現在地
先程から
何の写真を見せられているのか とお思いの方がほとんどでありましょうが、周りはぐるりと蔓のカーテンの中。
どうしようもないのである。
で 実はこれ、蔓と言うか、文字通りの
イバラの道…。
そこら中がイテぇ…。
涙をこらえつつ、ようやく丘の頂上へと上る事に成功しました。
現在地
そこで最初に出くわしたのがこの石碑。
が、どう見てもこれは正面じゃあないな。
最初に見当を付けた通り、裏手側から登場する格好となってしまったようです。
どうやら右側面であるらしい このモニュメントは、石碑ではなく
墓石っぽい感じ。
お騒がせしてスミマセン、と手を合わせつつ 少々観察させて頂きました。
正面にはおそらく
「杉浦」という方の名前が彫られていますが、判然としません。
しかし右側面には この写真のように びっしりと碑文が彫られており、どうやら普通の墓石ではないらしい。
残念ながら これを読み解く能力を持ち合わせておりませんで、どういった謂れのものなのか 結局わからずじまいです。
現在地
そして正面と思われる方向へ向き直った状態から右(南東方向)へ移動すると、そこには様々な形状をした石がいくつも転がり、草の中に埋もれんとしているのが目に入りました。
そう、これこそが 件の
五輪の塔。
冒頭で載せたイラストを思い浮かべて頂くとイメージしやすいでしょう。
苔生した表面の状態を見ても、かなり古い年代の物である事が推測できます。
それにしても…まさか
塔が崩壊 しているとは。
長い時間ここには誰も訪れていない事から あり得ない事ではない…けど、やや複雑な心境です。
蔦の海から一つづつ掘り出せば、彫られた文字等から 何かしら情報が得られたかもしれませんが…。
現在地
さらにもう少し右に移動すると、このような石碑が建っていました。
【杉浦氏 代々之霊神】
と掘られているようです。
“〇〇家” ではなく “氏” になっているのが興味深い。
が、これもまた どういった内容のものなのかは結局 不明のままです。
さて、これら3つのモニュメントが鎮座する
丘の上の平地は、これで終わり。さほど広くはありません。
掘られていた文章など謎は多く残っていますが、それらは後の机上調査に期待します。
あとは ここへ登ってくる正規のルートを知りたいところ。
丘の周囲を俯瞰して、降り口が見えないかと探ってみました。
そしてようやく「獣の踏み跡…?」という程度の道筋をやや強引に下ってみると
現在地
下山に成功。
しかしこれが正規のルートなのかと言われると…正直、微妙。
部分的に階段状になっている場所もあった(ような気もする)し、「当たらずも遠からず」な感じでしょうか。
とはいえこのルートも、そこから数歩も離れて見れば たちまち藪の中に掻き消えてしまうほど か細いものでした。
そんなわけで、
「福用の五輪の塔の現状についてのレポート」は以上となります。
ようやく辿り着いた五輪の塔は既に崩れており、当時の姿、形、大きさなどを十分に知ることはできませんでした。
どうにかして崩れる前の様子がわからないものかと その姿を
GoogleMapに求めてみると…ギリギリセーフ!
過去のデータとして写真が残っていました。
それがこちら。

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GoogleMap ストリートビューより
そこには、3番目に見た大きな石碑と共に
五輪の塔が 本来あるべき姿で写真に収まっていました。
とは言っても画質は荒く外観さえハッキリとは見えませんが…、少なくとも2基は確認できます。
この写真は2012年の6月に撮られており、どうやらこの頃までは 定期的に草刈りなどの手入れが行われていたようです。

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GoogleMap ストリートビューより
見えないところは想像で補完していますが、わかる範囲で丘全体のアウトラインを入れてみました。
もちろん、辻褄の合わないところもありますけど。
意外にも ここは自然の小山ではなく、上半分が石垣で造成された人工的な丘であるようです。
あるいは自然の地形を段々に削って、石垣で補強したパターンかもしれません。
いずれにせよ、それなりの手間・工数をかけて設えられたものだった事が伺えます。
よく見ると1番目に見た墓石らしきものの正面に石積みの階段があり、そのまま一番下まで続いています。
どうやらこれが、不明だった正規のアプローチルート。
調査の最初に見かけた石積みは、このルートそのものだったようです。
結局のところ、これらの石碑群は何を目的としたものなのか?
極めて個人的な目的(個人所有の墓地など)のものであれば、今回は「即・お蔵入り」も止むを得ないところ。
まずはネット上で情報を漁ってみますが、当然のように何も引っかかりません。
次に紙媒体での資料を探してみます。
その結果 見つかったのは
【大井川の周辺と農村の移り変わり】(大石 孝・平成8年)
【かなやの 史話・民話・伝説見て歩く】(山田 好行・平成17年)
の2冊でした。
どちらも地元の方の執筆によるものですが、どうやら自費出版とのこと。すごい。
まず前者から見ていくと、「七.大井川と川供養」
(91頁)の中に
「五輪の塔と水神社」と題した項目を見つけました。
どうやら聞き取りによるもののようですが、そこには五輪の塔が建てられた経緯が記されていました。
「大井川の中流部、福用川と大井川との合流点に近い小高いところに、十数基の五輪の塔が並んでいます。年代は詳かではないが、十二〜十三世紀頃、大規模な山津波があって部落を押し流し、多くの人命が奪われました。その霊を葬うために建てられたということです。」(大井川の周辺と農村の移り変わり より)
内容については後ほど考察する予定ですが…
十数基ですか?
とてもそうは見えなかったけどな…。
次に後者ですが、こちらの情報量がまた凄い!
島田市の旧金谷地区に存在する寺社仏閣や碑、石仏などを網羅した、この地域の
史跡目録と呼んでも差し支えないほどの貴重な資料です。
当然 五輪の塔についても載っていたわけですが、説明文 自体は先の「大井川の周辺と農村の移り変わり」からの引用とのこと。
しかし その説明文に添えて、
現地の写真(3つの石碑のカラー写真!)と、
碑文を起こしたものが載っているじゃあありませんか。
特に驚いたのは
五輪の塔の写真。
大木の根元に寄り添うようにして、十数基とは言えないまでも、何基もの塔が確認できます。
こちらの資料についても 後で詳しく見ていく予定です。
とまあこんな感じで一通りの流れを追う事はできました。
できたんですが・・・足りない。
これでは足りない。
「そうそう、あそこの丘の上に 五輪の塔 があってね。」
この冒頭の話。
ご住職が語られたこの話には、続きがありました。
上で紹介した2冊でも 全く触れられていない話。
その話に誘われたが故に、今回のレポートがあるのです。
「そこで供養された人の中に 仲の良い三兄弟 がいましてね。
自分たちが死んだ後、「お互いが見える場所に墓を建てよう」と約束を交わしたそうです。」
・・・続く!
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