3基の墓標
五輪の塔
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第3話 墓ってなんだろう?
現在わかっている情報を基に、疑問点についてまとめてみます。
【@五輪の塔は いつ頃、何のために建てられたのか?】
これについては、第1話で紹介した資料が役立ちます。
「大井川の中流部、福用川と大井川との合流点に近い小高いところに、十数基の五輪の塔が並んでいます。年代は詳かではないが、十二〜十三世紀頃、大規模な山津波があって部落を押し流し、多くの人命が奪われました。その霊を葬うために建てられたということです。」(大井川の周辺と農村の移り変わり より)
実のところ、写真や現地の様子を見るに「十数基もあるかな?」という印象なのですが…。
おそらく想像しているよりも かなり小サイズのものが、横に連なっていたのでしょう。
さて、建てられた目的については
『山津波の犠牲になった人々の慰霊』であるようです。
山津波(現代で言う“土石流”の事)が起きた年代が
十二〜十三世紀頃とありますが、西暦で言えば
1101年〜1300年頃。
日本の
平安時代〜鎌倉時代にあたりますね。
その頃に建てられたものなのでしょうか?
一般に五輪の塔が建てられ始めたのは
平安末期で、大陸から伝わった石の加工技術を用いて 硬質の石材を使った塔が多くなったのが
鎌倉時代からと言われています。
もともと
五輪の塔は 身分の高い人のためのものでしたが、庶民にも普及し始めたのは
室町時代から。
さらに
江戸時代中期に入ると、現在主流になっている四角の墓石が増え 五輪の塔はほとんど建てられなくなった、というのが大まかな流れのようです。
今回の塔と照らし合わせても 一応 矛盾はありませんが、そもそも
情報元は何なのか?というのが素朴な疑問。
それだけ古い時代の出来事となると 何か書物などで残されていない限りは…まさか口伝で?
後世になって石碑に建替えられた、なんてパターンも考えられるだろうし…真実が判明する日は来るんでしょうか。

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では
形状の特徴などから製作年代が推測できないだろうか?
というわけで、まずは神尾型から。
なんだけど…えーと…
建っている姿が想像できない。
もしかして…二基分の素材ってことはないよね…?
次に福用型について。
もう一冊の資料
【かなやの 史話・民話・伝説見て歩く】(山田 好行・平成17年)にカラー写真が載っていたので、最も形を保っている塔をイラストにしてみました。
写真には 奇麗に建っている塔が一基(参考にした塔)と、やや崩れかけた塔が一基、半壊して部品が足りていない塔が二基ほど写っています。
見切れた位置にも まだ塔があるようですが、なんだかどれも違った形をしているように見えるんですよね…。
で 一番の問題は、
神尾型と
福用型が 全く違う形状をしていないか?ってことです。
それぞれ
別の工房・石工の作、なのかな。
「同じ形をしているだろう」と 勝手に想像していたわけですが、違うのか…。
やはり、しっかり建っている状態の神尾の塔の写真を入手したいところですねぇ。
とまあこんな感じで素人なりに考えてみたわけですが、やはり建立年代を特定するのは難しそうです。
【A隣にあった墓石・石碑との関係は?】
近くに建ってはいたものの、五輪の塔に関係あるのでしょうか?
どちらも建立年が刻まれており、明治時代のものであることは間違いないようです。
【かなやの 史話・民話・伝説見て歩く】(山田 好行・平成17年)には、両方の碑文が載っていました。
まずは墓石(写真左)から。
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杉浦作藏之墓
碑文
君資性温良及長漸知文字年十七始為
里正尋兼浦役及學務之事鋭意以勧
學勵農矯習俗通道架橋使行人是以遠
近皆懐干徳尓後奉職廿年雖隆寒盛
署無敢一日愉怠明治廿七年六月廿八
日計病土民哀惜日夜看病迎医請神
以祈全快惜哉天不假命千此人踰月廿
四日溘然易簀年丗七翌日葬先人墓
側闔村悼其死慕其徳賜金若干支祭祀
云君生一女養一男為嗣而立孤皆幼
於戲人命危浅朝不慮夕世或有業興名
朽而不傳者君今為郷閭能致共身祖
徳望其名盍無窮聊以可瞑
明治廿七年九月十一日
加藤作重謹撰
********************************
*実物は縦書きです。環境によっては文字が正しく表示されない可能性があります。
とまあ こう彫られていたそうなのですが…
自分に読めるはずもなく…。
しかしこれが最も確かな情報である事は間違いないので、汎用的なアプリを駆使しつつ必死こいて意訳してみました。
まずこの石碑は、
【杉浦作藏】なる人物の功績を顕彰するため、
【加藤作重】という人物が
明治27(1894)年9月11日に建立した墓石だそうです。
以下、杉浦作蔵氏について。
杉浦氏は優しくて温厚な性格で、徐々に読み書きを覚え 17歳で村長に就任し村と学校の責務を担うようになりました。
学問や農業を奨励し、橋を架けて通行の便を良くすることに努め、近隣の者も遠方の者も、皆 彼の徳を称えました。
彼は20年間この職を務め、寒い日も暑い日も 1日たりとも休むことはありませんでした。
明治27年6月28日、杉浦氏は病気にかかります。
地元の人々は心配して 昼夜を問わず治療し、医者を招き、回復を神に祈りました。
しかし残念ながら 天は彼の命を救ってはくれず、翌月24日に帰らぬ人に。
その時 彼は37歳で、翌日 先祖の墓に埋葬されました。
村中が彼の死を悼み、彼の徳を讃え 供物を捧げました。
残された二人の子供たちはとても幼く、明日からどうやって生きていくのかも分かりません。
名を残しながらも伝承されていない者もいますが、あなたは先祖の徳を繋ぐ同郷の者です。
あなたの名が末永く語り継がれ、安らかにお眠りくださいますようお祈り申し上げます。
とまあ、おおまかこんな意味だと解釈したのですが…あってるのかこれ…?
ぜひ、専門家のご意見をお聞きしたいところです。
それにしても
杉浦作藏氏とは、実に
優れた人物だったようですねぇ。
自分の意訳が正しければ、ですが…。
とりあえず氏の名前を検索してみましたが、ネット上には見つかりませんでした。
加藤作重氏は
株式会社加藤製作所の創業者(かとう さけしげ)と同姓同名という情報がヒットしましたが、関連は不明です。(株式会社加藤製作所の創業年は明治28(1895)年)
碑文の内容は杉浦氏について彫られたもので、山津波の犠牲者を供養するための五輪の塔とは ほぼ関りは無いようです。
今のところ、両者に関連性を見出すことはできていません。
そしてもうひとつの石碑(写真右)について。
こちらは どうやら個人的な意味合いの強いものであるようなので、詳細は伏せようと思います。
一応 ざっくり書くと、石碑の裏側に5名の名前(?)が彫られていて、いずれも『○○○○命』となっています。
おそらくこれは
神道の諡なのかな?と。
(仏教の戒名のようなものですが、意味合いは全く違います)
もしかしてこれは、杉浦作蔵氏の子供の供養碑なのでしょうか?
建立日は明治33(1900)年6月となっています。
霊神塔というキーワードで検索しても ほとんどヒットしませんが、供養塔の一種であることは間違いないようです。
とまあこんな感じで 五輪の塔との繋がりを見つけるには至りませんでしたが、完全に無関係だと断言する材料もありませんでした。
【B三兄弟とは何者か?】
これが最も重要なポイントなのですが…。
残念ながら、
不明のままです。
名前すらわからず。
どうしたもんか…。
【C現地での情報】
福用での調査の際、幸運にも地元の方にお話を伺うことができました。
まず犬の散歩をしていたご婦人に聞いたところ、
そのような塔があること自体ご存知ではありませんでした。
これはつまり、周辺住民の方々が集まっての
『毎年の供養』とか、
『草の刈り払い』などの定例行事が無いということですかね?
その後、ご婦人が 丘のすぐ近くにある家の方を紹介してくれたので、そこでもお話を伺うことができました。
内容をまとめると、
・すぐ横の家の方が管理されていたようだが現在は住んでおらず、20年位前から放置されている。
・地域で集まって何かの行事をしたような記憶は薄いが、一部の者(関係者か役員か?)が集まって何かをしていたかもしれない。
・子供心に あまり良い印象はなく、近くで遊んだ覚えもない。(遊ぶと怒られた?)
このような感じ。
「五輪の塔が3ヶ所ある話」も、聞いたことがないそうです。
貴重な情報をありがとうございました!
さあさあ、そんなわけで。

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『3ヶ所目の五輪の塔に 心当たりはありませんか?』
これについての情報を募集したいと思います。
既に
第1話、
第2話を読んで頂けているものとして進めますが、以下詳細。
まず何よりも重要なポイント。
【お互いが見える位置】
【形状は(おそらく)五輪の塔】
この2点。
まあ実際、
『これしか手掛かりがない』 というのが正直なところ。
これを信じた上での捜索となります。
また、これに加えて 以下のような状況が考えられます。
・確認されている福用・神尾の両塔と同様に、崩壊しているかも。
・神尾の塔のように、視線が通る事は通るが樹木によって遮られているかも。
・草に埋もれて、見分けがつかないかも。
・モニュメント的な存在ではなく、集落の墓地の中に紛れているかも。
・『五輪の塔』ではなく、目印程度の置石や四角の墓石かも。
まさに雲をつかむような話。
これ、見つかるのか…?
一応 現時点で考えられるパターンや、候補地をいくつか挙げてみます。
@王道3角形【鍋島エリア】

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まず真っ先に思い浮かんだのがここ。
奇麗な三角形を描ける
鍋島地区。
GoogleMap 3Dより
とは言っても
鍋島の集落自体は神尾の塔からは稜線の裏側に当たり、ほぼ見えません。
手前側に見えている茶畑も、今度は福用の塔からは見えなくなるわけで…。
となれば確率が高いのは、稜線(2つ上の写真に示した紫のライン)上ではないかと。
ただ気になるのは、
当時のお墓の在りようについて。
どこでも好きな場所に建てられたもんなんでしょうか?
ましてや明治時代より前ともなれば、大井川の対岸など
別の国も同然だったのでは?
このあたり、
3兄弟がどこに住んでいたのか? も重要なヒントになりそうです。
A意表を突く【高熊エリア】

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まずはこちらをご覧ください。
GoogleMap 3Dより
福用地区のお隣・
高熊地区の山の上にも、こんな感じで両者が見えるポイントが存在するのです。
同様に、神尾山山頂などの
「高い位置から」も含めれば、候補地はもっと増えるはずです。
Bこうなるともう無理【神座エリア】

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変則的な考え方で、
『お互いに』ではなく例えば
福用⇔神尾⇔神座 のような連鎖形を「見える」と解釈するパターン。
GoogleMap 3Dより
まあ これをアリとしちゃうと前提の意味が無くなってしまうので、あくまで可能性の一つということで。
C既に見つけている【福用・神尾エリア】
福用では 並んで複数の塔が存在していたことを確認しているわけですが、
このうちの2つが二人分である可能性は否定できません。
また神尾の塔についても、現地にあった素材の数が
2基分であった可能性が否定できないため、これが二人分というパターンも浮上します。
まあ これはこれで
解決と言えるのですが…それを
証明できなければ意味がない。
一番やっかいなパターンでもあります。
とまあ そんな感じで、情報お待ちしてます。

katteni.ooigawa@(←小文字にて)gmail.com

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名所File No.I01
五輪の塔
営業時間:営業終了
所在地:静岡県島田市福用
交通アクセス:大井川鐵道 福用駅より 徒歩5分