地蔵峠の山頂に立ちたい

地蔵峠山

TOP
第1話 第2話

第1話 切通の多いって来ました。


地蔵峠の山頂に行ってみたい、と常々思っていた。
しかしここ静岡県で“地蔵峠”と言えば、ほとんどの人が静岡市梅ヶ島にある名所の方を思い浮かべるはず。

静岡市梅ヶ島
Google Mapより

だがこのサイトで扱うのは大井川流域のみ。
つまりはこちら。

島田市
国土地理院 地図より

ここの事です。
どこの事なのか、もっとわかりやすく下流方向から撮った写真がこれ。

Click!

まあこんな感じに写真に撮ってしまえば、何て事は無い 只の小さい山に見えるわけですが。

ここが気になって堪らない。

で実際の所 “地蔵峠山頂” と勝手に呼んではいますが、そもそもこれは山ではありません。
そのまま稜線伝いに東へ向かえば もう少し高い頂があるので、山と呼ぶならそちらの方がふさわしい。

ではこれは何なのか?と言えば、ただの 切通きりどおし でできた残り部分なわけで。
そうなるとこの山はいつできたのか?って話になりますが、それはつまり いつ切通工事が行われたのか?というのと同じ事。

Click!
Google Map ストリートビューより

上の写真の黄色いラインが昔からの稜線(予想)で、はるか昔の地蔵峠は 青矢印で示した鞍部を通っていました。
この、問題の区間を通る道路 つまり “金谷中川根線” がどのような歴史を辿ったのか。
簡単に追ってみましょう。

1920年
ウェブ地図 地理@沼津高専より

これは1920年(大正9年)頃の地図。
金谷川根線が片側破線で描かれているのは、“道幅2m以上の町村道”、という事でしょうか。
“地蔵峠”と書かれた位置にある丁の字路は 神尾地区との分岐点ですが、等高線の感じから見て 現在の旧道とほぼ同じ位置のようです。
よく見ると、金谷から来た道は神尾地区へまっすぐ向かう方が 主要ルートとして描かれているように思います。
これは当時の交通事情によるものでしょう。
それから、大井川方向へつづら折れで下っていく徒歩道が破線で描かれています。
これは気になりますねぇ。
かなりの急斜面ですが、どんな道だったのでしょうか。
この道の辿り着いた先には、神座〜神尾間の渡し船が描かれています。
大井川鐵道は、まだ開通していません。




昭和の風景動画第20集 昭和7年8月 今村朋恒先生を迎えて、佐藤美子女史を迎えて 昭和7年9月27日

こちらの動画の2:07辺りから、自動車で地蔵峠(動画中では神尾嶺となっています)を登っていく様子を見ることができます。
昭和7年に撮影された、かなり貴重な映像です。
それなりに道幅はあるものの、道の東側(大井川側)は切り立った崖!
所々に柵があるようですが、運転には相当の技術と覚悟が必要だったのでは?と想像します。
動画の説明はリンク先のYouTube説明欄をご覧ください。

*** 追記 ***

映像からのスナップショットを使用する許可を頂いたので、いくつかのシーンを切り抜いて静止画で追加します。
車内にカメラを持ち込んでの撮影のようです。
さすがに鮮明な画像とは言えませんが、雰囲気は十分伝わるかと思います。

神尾嶺
動画より


神尾嶺
動画より


神尾嶺
動画より


神尾嶺
動画より


神尾嶺
動画より


神尾嶺
動画より

写真は金谷から地蔵峠に向かう順になっています。

神尾嶺
動画より

山肌に白っぽく見えているのは露頭。(岩石・地層・鉱床などが地表に露出している部分)
一行は地震学の専門家である今村明恒 東京帝国大(現東京大)助教授を迎えて、「これを見に来た。」という事のようです。
で、この露頭ですが…。
当サイトのFileNo.01 神尾弁天でも少し触れた、【横臥褶曲断層】をご存知でしょうか?
(2023年1月14日(土)放送の NHKブラタモリ ♯225 大井川「”越すに越されぬ大井川”は何を生んだ?」でも取り上げられました。)
これは、あの断層がずっとここまで続いているという事!?
さらに言うならば、神尾弁天が祀られていた 『舟島』や、大井川対岸に当たる 『川口地区の川岸』『鍋島地区の川岸』などでも見られました。
これらが全部繋がっているのを想像すると、改めてスケールの大きさに驚くしかありません。

*** 追記終わり ***





1950年
ウェブ地図 地理@沼津高専より

お次はこちら、1950年(昭和25年)頃。
金谷川根線は位置の変更は特にないまま、“道幅3m以上”に整備されたように見えます。
これが道路状況の劇的な改善となったのか、金谷から来た道は上流の福用方面へ向かう方が主要であるように変化しました。
神座〜神尾間の渡し船は既に無く、地図中の破線は徒渉(川を歩いて渡る)可能な場所を表しているのだと思います。
そしてこの頃には既に大井川鐵道が開通し、神尾駅が描かれているのが見えます。

*** 追記 ***

偶然、この金谷川根線の工事についての記録を見つけました。
しかも明治時代の!

地蔵峠
日は沈み日は又昇る より

【日は沈み日は又昇る 創立35周年記念誌】(社団法人島田建設業協会・1983)という記念誌の中の『加藤建設株式会社』の頁に載っていた一枚。
注釈には、「明治の初めごろと思われる現在の金谷中川根線神尾地内の開設工事」と書かれています。
ご覧の通り、電動工具や空圧工具などない現場で手作業で道を開墾していく…。
いやはや強い!

*** 追記終わり ***

地蔵峠隧道
図説 金谷町史 2005

神尾駅を千頭方面へ出てすぐの位置にある“地蔵峠隧道(トンネル)”の工事風景を見つけました。
置いてある大量の資材は、石でしょうか?
今後このサイトでも、大井川鐡道関係のアレコレを いくつか調べていこうと考えておりますよ。

さて、1954年(昭和29年)3月になって、 “県道36号 金谷中川根線” は 未舗装ながらも ついに全線開通を果たします。

1963年
国土地理院 航空写真より

全線開通後の1963年(昭和38年)頃の航空写真がこちら。
これを見ると“県道36号線”は現在も残る旧道を通るルートだったようです。

今回の目標となる山はまだ存在していません。
あくまで神尾山(写真左方向に続く)の一部でした。

そして1964年(昭和39年)3月、この道は“主要地方道”に指定されます。
主要地方道に指定されると、整備や維持管理に必要な費用の50%まで、国の補助を受けられるとのこと。
これで弾みがついたためか、1972年(昭和47年)には全線の舗装が完了し、記念式典が行われた記録があります。

島田市
国土地理院 航空写真より

さらに道路状況を良くするためだったのか、なにやら大きく変化し出したのが上の写真。
1975年(昭和50年)頃の航空写真ですが、例の切通区間の辺りが白く伐採されています。
しかも、上流側・下流側の両方向から。

島田市
国土地理院 航空写真より

さらにこれが5年後の昭和55年(1980年)頃
法面は白いままですが、完全に開通しています。
このあたり、文章での史料を見つけることができなかったので経緯や開通年は不明なのですが、(↓追記しました!)
なんにせよ

“地蔵峠山” 誕生!


*** 追記 ***

この区間の工事についての記録を見つけました!

地蔵峠
日は沈み日は又昇る より

上の追記部分でも紹介した、【日は沈み日は又昇る 創立35周年記念誌】に載っていた1枚。
『池村建設株式会社』のページにありました。
「金谷中川根線道路特殊改良工事」と題されたこの写真、はっきりと昭和54〜55年(1979.9〜1980.3)となっています。

それから、ぜひ下の写真と見比べてみてください。
いくつかの標識は、この当時のまま使われているっぽい?!

*** 追記終わり ***

さらにこの後の1993年(平成5年)4月、県道36号 金谷中川根線は、見事!国道473号に昇格する事となります。
(この国道473号線ですが、これまた なかなかアレなルート になっていますので興味のある方はぜひ検索してみてください。 多くのレポートが見つかると思います。)

さてさて、まあそんな時代を経まして。
この地蔵峠をショートカットするようにできた道の残りが この“地蔵峠山”になるわけです。
これは言い換えれば、“人工的にできた山”
しかも、山を作ろうとしてできた山ではなく、残された結果が山状であっただけの山。
私は、こういう切通工事でできた残り山、三角山にたまらなく惹かれるのです。
共感してくれる人が果たして何人いるのか分からないですが・・・。

Click!
国土地理院 地図より

とまあそんなわけで、この【地蔵峠山頂】に行ってみます!




第2話へ

第1話 第2話
TOP