巨大遺構を見に行く

昭和橋

TOP
第1話 第2話 第3話 第4話

第3話 昭和のある日、橋が一つ、行方不明になった。



注意:今回は文字多めなので、お覚悟を。

この旧昭和橋の架橋時期について調べてみると、【中川根町史 近現代通史編】に記述がありました。

「二八年(昭和三)一月、徳山・下川根両村民の負担で、徳山村地名と下川根村石風呂間に鉄線吊橋(昭和橋)が建設されている。〜略〜
橋の長さは七四七尺(二二六メートル)、幅六尺の「一般交通」を目的とした鉄線吊橋であり、荷車・自転車などは通過できたそうであるが(聞取り)自動車が走れる橋とはなっていなかった。」

当時の行政区割りはこちらを参照

・・・えーと。

いきなり頭が混乱していますが。

前話で確認した橋名板に刻まれた竣功年は昭和31年となっていたので、およそ28年も差があります。
しかも“自動車が走れる橋とはなっていなかった”とハッキリ書かれている・・・。

となると、ここまでの情報から考えられる仮説は以下のようなもの。

0.橋が架かる以前    渡船による往来
1.初代 昭和橋(吊 橋)昭和 3(1928)年 1月竣工〜?年まで *荷車・自転車まで通行可の人道橋
2.2代目昭和橋(吊 橋)昭和31(1956)年 6月竣工〜?年まで *自動車も通行可能
3.3代目昭和橋(永久橋)昭和53(1978)年10月竣工〜 現行  *大型車も通行可能、歩道付き

このように、昭和橋は3代に渡って当時の人々の交通・物流を支えてきたのではないか?と。

となれば、あとは初代・2代目の現役時代の写真、及び紙媒体での資料を見つける事を当面の目標としましょう。
またその過程で、“2代目は自動車通行可能だったのか?”についてもハッキリさせたい所です。



まずは先の架橋時期についての記述と共に載っていた、一枚の写真。

旧昭和橋 Click!
中川根町史 近現代通史編より

「旧昭和橋上を歩行する児童」というキャプションがついていますが、撮影年度が不明です。
主塔の一部と吊橋本体が写っていますが、これは初代橋なのか2代目橋なのか・・・?
初代橋の説明文と一緒に載っていたのだから、やっぱり初代橋でしょうかね。
主塔はほとんど写っておらず詳細が掴めないので、橋の構造自体に着目してみます。

クリック後の写真は、大雑把ですが橋の構造を着色したもの。
橋の構造について専門外なので、間違っていたらご指摘ください。
【単径間の下路補剛鉄線吊橋】で合ってますかね?
“人道橋”として架けたにしてはかなりの剛性を確保しているように感じてしまうのは、久野脇橋(塩郷の吊橋)を見すぎているせいでしょうか。

塩郷の吊橋(恋金橋)
Google Map ストリートビューより

↑写真は久野脇橋(塩郷の吊橋・恋金橋とも)。
見ての通り、荷車などは通行不可です。



ちなみに私、学生の頃、この塩郷の吊橋を自転車で渡ったことがあります。(笑)
なぜそうしようと思ったのかは永遠の謎ですが、ただひたすらに怖かった。途中で後悔した。
以降、上の写真を見て想像しながら読んでいただきたい。

手摺り(ただのワイヤー)がちょっと低い位置なので、自転車にまたがった状態では両脇に何もないのとほぼ同じ。
どうせハンドル(&ブレーキ)を握ってなけりゃいけないしね。
サーカスか。
これがまた前半は良かった。
下りだし、ブレーキ緩めれば進むから。
後半は地獄よ。地獄の登り坂。
渡ったことがある人はわかると思うけど、これがまた結構傾斜があるのよね。
当然ペダルなんて漕げたもんじゃないから(主に恐怖で。すげー揺れるし。)つま先だけでソロソロと進むのみという。
かといって自転車から降りられるような床板幅でもないし、バックも方向転換も無理。
完全なる一方通行。
結局、ゴールの久野脇側に辿り着くまでに どれだけの時間を要したんだろうか・・・。
これは当時、まだこの橋が【恋金橋】として観光地推しされておらず、通る人など ほとんどいない頃だったからこそできた所業。
駐車場が整備され、観光客が途切れることの無い現在では不可能な体験と言えるでしょう・・・。



さて話を戻します。
とりあえず判断は保留して、次の写真を見てみましょう。
これが2枚目の写真。

旧昭和橋 Click!
写真案内記 日本南アルプスと大井川 復刻版(平成二十三年発行)より

地名側から石風呂方面を撮った写真のようですが、撮影年が昭和3年頃との事なので、これは間違いなく初代橋のはず。
その証拠に、明らかに主塔の形状が違います。
初代橋はこんな感じの主塔だったという事ですね。
おそらく木造ではないかと。
残念ながら、橋本体の構造が分かるほどの解像度ではありません。

それと写真の吊橋の左側(下流側)に写っている2本の柱、これは何でしょうか?
ちょっと気になります。



3枚目はなんと、映像になります!
YouTubeに挙がっていた、この動画。


昭和の風景動画第16集 大井川下り 昭和6年7月4日 川下り、新金谷、五和村居林、福用、笹間渡、徳山村地名、つり橋 昭和橋、下川根村石風呂、鵜山の七曲がり、家山、神尾峡、 地層の褶曲、神座

説明文にもあるように、これは昭和6年7月の川下り旅行を撮影した映像のようです。
この映像は全編に渡って、かなり貴重な映像ですよ・・・。

*** 映像からのスナップショットを使用する許可を頂いたので、静止画を加えて再構成してお送りします。***

一行は島田駅を出発して大井川鐵道新金谷駅からSL列車に乗り、開通から1年が過ぎた地名駅で下車。
そしてここから河川港のある下川根村石風呂まで徒歩移動しています。

地名駅前 Click!
GoogleMapストリートビュー、動画より

駅を出て大井川方向へ向かって坂を下る一行。
動画では数カットに渡って撮影されていたので、合成して大きいサイズの静止画に編集してみました。
クリックすると「おそらくここだろう」と思われる現代の写真と入れ替わります。
駅を出て県道77号線に合流すべく、斜めに下っていく道です。

中間字幕
動画より

そしてこの中間字幕の後、一行は“昭和橋”へ。

初代昭和橋地名側
動画より

このように人物が一緒に写っていると、主塔がどれだけ大きかったかよく分かりますね。
もちろん木製です。
この映像もまた撮影年から考えて初代橋なわけで、つまりは2枚目の写真と同じ橋が写っていることになります。

初代昭和橋
動画より

そしてそして動画の3:35辺り。 なんと、実際にこの橋を渡っている様子が動画として残っています。

奥の方には2枚目写真と同様の2本の柱が確認できます。
高さは吊橋主塔と同程度で、やや“ハの字型”に建っているように見えます。

初代昭和橋
動画より

撮影者が一体どこから撮っているのか気になりますが…。
動画を見る限りでは、これは【単径間無補剛鉄線吊橋】となるでしょうか。
1枚目の写真と見比べてみると、構造が全く違うことに気づきますね。(特に横桁を直接吊っている点や、手摺部分など)

その後、一行は石風呂側で舟に乗り込み、昭和橋の下を通過していきます。

初代昭和橋
動画より


初代昭和橋
動画より


初代昭和橋
動画より

さすがにこの画質では詳細な分析は厳しいですが…。

これらの情報から、1枚目の写真に写っていたのは2代目昭和橋ということになりますね。
初代橋についての記事だったのに…。

*** 再構成部分終わり。***



さて、次です。

旧昭和橋 Click!
中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌より

かなりの紆余曲折を経て、ようやく見つけましたこの写真。
遺構と同じ主塔の形状、そして1枚目写真と同じ橋の構造。
これはもう、2代目橋と見て間違いないでしょう。

この写真、背後の山や周辺の地形などから考えても、石風呂側から地名方面を撮ったものだと思われますが
惜しむらくは石風呂側の主塔周りが写っていない事・・・。
例のスロープ接続部分がどうなっていたかが確認できない事です。
結局のところ、この写真からは“自動車通行可能”だったかどうかは判断つきません。
1枚目の写真を見る限りでは幅は十分あるようですが、通行人とのすれ違いはできたんでしょうか?

この写真が載っているページには同様に“中徳橋” “淙徳橋” “萬世橋”の吊橋時代の写真があり、説明文には

中徳橋(昭和36年まで) 淙徳橋(昭和37年まで)
萬世橋(昭和43年まで) 昭和橋(昭和58年まで)
「現在は塩郷の吊橋だけになったが、昭和30年代までは、ほとんどの橋が木造の吊橋であった」

中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌より


と書かれています。
先に調査したとおり現行の昭和橋は昭和53年竣工なので、約5年間は併用期間があったのかもしれません。

そして、ここで気になるのはクリック後写真の赤枠の中。
奥の方にあるのは、初代昭和橋と目される写真にも写っていた2本の“ハの字型構造物”ではあるまいか?
これがもし全く同じ構造物であるならば、とてつもない違和感に襲われます。
それは位置関係
初代橋の写真では初代主塔のほぼ真横方向に位置しているのに対し、2代目橋の写真では主塔の背後にあるように見えませんか?

とまあそうは言ってみたものの、2枚目の写真を見る限り“ハの字型構造物”は川岸ギリギリに建っているようなので、これより川寄りに何かを造るような場所はないはず。
これはおそらく2代目主塔が初代主塔よりも高かったが故の錯覚なのでしょう。
しかしそうなると、橋の架け替えに伴って この“ハの字型構造物”も場所を変えて建て直された事になるわけですが、その正体はいったい何なんでしょうか?



さてさて、これでようやく【初代昭和橋】【2代目昭和橋】の外観は見えたわけですが、肝心の“2代目昭和橋・自動車通行可?”については全く進展がありません。
先述の仮説が正しければ、初代昭和橋が架けられた1928年(昭和3年)から2代目昭和橋の架橋1956年(昭和31年)までの間に架け替え工事(それも主塔ごと総取り換えの大工事)が行われたはず。
その記録を見れば、ほとんどの疑問が解決するのですが・・・。

しかし、ここまで出てきた資料には【2代目昭和橋】についての記述は一切ありませんでした。
1枚目の写真は初代昭和橋の写真として誤掲載されている感が強いし、
4枚目の写真は巻頭の“当時の風景写真”的なコーナーで取り上げているに過ぎず、文章による言及は上記の説明文だけ。
竣工年についても現地の橋名板によって判明しただけで、資料上では見ていません。

さらに極めつけは、各誌の歴史年表内でも全く触れられていないことです。
昭和31年及びその前後数年に渡って目を皿のようにして探しましたが、“昭和橋”の名前は全く見られず・・・。
正直 この規模の橋の架設についての調査ならば“町史”あたりをパラパラ捲るだけで書いてあるもんだと思っていた自分が甘かった。



で、郷土史から少し離れて土木的な見地から情報を探してみたところ、“橋梁史年表”のデータベースに見つけることができました。
まずは初代橋から。

 橋 名 :昭和橋             
開通年月日:1927−           
橋長(m):223             
幅員(m):                
 形 式 :木造吊橋 木塔 無補剛     
 特記事項:1954年12月9日 強風で落橋

開通年は町史のとおり。
長さもほぼ同じ。
幅員は記載なしですが、冒頭の記録によれば1.8mほどのはず。
形式も映像から判明したのと一致しています。主塔はやはり木造でした。
で、問題は特記事項。

強風で落橋!

1954年と言えば2代目橋竣工の2年前。
そして判明した架け替えの目的、それは初代橋の落橋によるものでした。

では2代目橋の記録はどうなっているかというと、

 橋 名 :昭和橋                  
開通年月日:1956−                
橋長(m):193.8                
幅員(m):2                    
 形 式 :木造吊橋                 
 特記事項:1978年10月1日下流70mに新橋架設,
      L=180 b=6.5+2        
      連続プレートガーダー           
      l=57.5+64+57.5       
      空気ケ−ソン               

開通年は橋名板に示された通り、昭和31年。
橋長は初代橋より30mも短くなっていますが、これはおそらく主塔の違いによるものだと思います。
幅員は少し増え、2mに!
現代の軽トラックの車幅が1.48m以下ということを考えると、ひとまず自動車の通行については否定されませんでした。
(ちなみに自動車で渡れる吊橋として有名な井川大橋が幅員2.5mで、普通自動車なら問題なく通過できます。)
形式は木造吊橋としか書かれておらず、ちょっと残念。
特記事項にあるのは現行の3代目橋についての記述のようです。
ここに“下流70mに新橋架設”とはっきり書いてあることが、逆に初代橋と2代目橋が同じ位置に架けられた事を意味している、と思いたい。
(単純に書いてないだけ、というパターンもあるし。)



さて、ここまで判明した事を整理してみます。


0.橋が架かる以前    渡船による往来
1.初代 昭和橋(吊 橋)昭和 3(1928)年 1月竣工〜昭和29(1954)年12月まで *荷車・自転車まで通行可の人道橋
2.2代目昭和橋(吊 橋)昭和31(1956)年 6月竣工〜昭和58(1983)年   まで *(仮)自動車も通行可能
3.3代目昭和橋(永久橋)昭和53(1978)年10月竣工〜 現 行           *大型車も通行可能、歩道付き


この段階でまだハッキリしていないのは、“2代目橋が自動車通行可能だったのか?”という点。
そこがわかれば、・石風呂側のスロープ問題、・制限速度表示問題、についても何かしら進展があるでしょう。
あとは“ハの字型構造物”が何なのか、といったところか。

いつかは結論に辿り着けるだろうと期待を込めて、今後もさらに調査を続けていきますよ。



*** 追記 ***

いつもお世話になっている下長尾地区在住のS氏から情報を頂きました。
やはり2代目橋は“自動車通行可”だったという証言!
何でも小学生の頃「大井川に架かる橋」という内容で自由研究をしたことがあるとのこと。
父親と一緒に現地まで行って、実際に長さなどをメジャーで測ったそうです。
残念ながらあの“制限速度マーク”などは覚えていないそうですが、自動車が橋を渡っている写真なども見たことがある、と!
重要な情報、ありがとうございます!



名所File No.04
旧昭和橋

営業時間:営業終了
所在地:静岡県島田市葛籠、静岡県榛原郡川根本町地名
交通アクセス:大井川鐵道 地名駅より 徒歩15分






調査完。


第4話へ

第1話 第2話 第3話 第4話
TOP




*** 余談 ***

初代吊橋を架橋するにあたっての一番の問題は予算だったようです。
資料によれば総工費は約9510円。
昭和3年の9510円を令和3年の価値に換算(企業物価指数・戦前基準指数より)すると630万円位でしょうか。

「架橋の建設費は、当時は県道・町村道の路線外であり、〜略〜 全て関係の町村・区で捻出せねばならなかった。」(中川根町史 近現代通史より)

と記録にあります。
当時、沿岸の堤防修理費は県の補助が得られたらしいのですが、上述のように里道に属する橋の架設は
全て地域住民の負担で建設・管理をするしかなかったとのこと。
記述は「なんとか地元町村区で約半額を負担したものの、残りは寄付に頼るしかなかった」 といった感じで続いています。
しかし竣功時でさえ全額は払いきれていなかったようで、その後も金策に苦労していたようです。

【川根町史 近現代史料編】には “地名村と葛籠村を結ぶ橋建設に関する申請書” の解説文が載っていました。
(地名集落は当時の徳山村→中川根町(後に川根本町)ですが、石風呂集落は当時の下川根村→川根町(後に島田市)なので川根町の史料にも昭和橋はもちろん登場します。)
そこには、

「この見積もりによると、建築費用を通行料で徴収し、二十一年で償却しようとしていました。」(川根町史 近現代史料編より)

と書かれており、その通行料は
・一人 一銭(約67円)
・牛馬は一匹 二銭五厘(約166円)
・分持荷物と負荷物は 一銭五厘(約100円)
となっています。

実際にこれが適用されたのかどうかまではわかりませんが、
初代昭和橋が“賃取橋”だったのかどうか?まで判明したら面白いですねぇ。