巨大遺構を見に行く

昭和橋

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第1話 第2話 第3話 第4話

第4話 このは早晩崩壊するでしょう。



第3話での調査後も、新たな手掛かりが見つからないものかとアンテナを張っていました。
とりあえずいくつかの情報を得たので、新たに検証していこうと思います。



まずはこちらの写真から。

旧昭和橋 Click!
大井川の周辺と農村の移り変わりより

写真の説明として『石風呂集落 昭和20年代』となっているわけですが…はて?
主塔の形状を見ると、これは2代目橋
そして右側(下流側)に3代目橋の影も形もない事を合わせると、この写真は昭和31(1956)年〜3代目橋着工前(昭和40年代後半?)に撮影された写真ではないかと思います。

橋を延長した方向に白っぽい道のようなものが続いています。
これが道路であるかどうかまでは判然としませんが、その可能性は非常に高いと言えるでしょう。



お次は【橋梁研修会資料】(静岡県土木部・静岡県道路協会/1987)という資料から。
こちらは3代目橋(現行橋)の施工内容についてまとめた工事報告書なのですが、重要な情報がいくつも載っていたのでご紹介します。

まずは [1.はじめに] の内容から、少し長いですが引用してみます。

「本県道は昭和50年4月路線延長の認定により、従来中川根町及び川根町の組合管理道石風呂地名(停)が昇格したものである。当時2町で施工中の昭和橋も、同年より静岡県の橋梁整備事業として引継がれ施工することとなり、昭和53年10月1日吊橋(昭和31年完成)に変わって近代的な永久橋に生まれ変り、奥大井の森林資源の搬出や、観光開発に効果を上げるだけでなく、山間道路の宿命である災害時の左右岸県道の迂回使用が可能となり地域住民の民生安定に資するところ大である。」

ここでは、昭和橋がどこの管理に属しているかが示されていました。
この資料によると、昭和31(1956)年完成の2代目昭和橋は石風呂地名停車場線という組合管理道に属していたようです。
組合管理道とはその名の通り、地元の人達などが組合を組織して建設・維持・運営を行う道路のこと。
こういった県道・町村道よりも規格の低い“里道”に属する橋の架設は、全て地域住民の負担で建設・管理をするしかなく、そのために管理組合を作ったわけです。
と、第3話の余談でもこのような事を書いたのですが、あれは初代橋の話
2代目橋になっても“里道”のままだったことが分かりました。

そして昭和50(1975)年4月 「路線延長の認定により〜昇格した」「静岡県の橋梁整備事業として〜」とあり、この路線が県道に昇格した事が分かります。
この県道については後述するとして、興味深いのは「当時2町で施工中の〜引継がれ施工することとなり」という記述。
これはつまり、“3代目昭和橋の着工時は里道だったが、途中で県道に昇格したため県の事業として引き継がれた。”という事になるようですね。
思えば第1話で紹介した2代目吊橋と3代目施工中の様子が同時に写った写真。

昭和橋
国土地理院 航空写真より

この撮影年は昭和50(1975)年とされているので、まさに県道に切り替わるちょうどその頃の写真だったんですねぇ。

さて、次に見るのは [2.概要] のところ。
(1)位 置 榛原郡中川根町地名(左岸)〜榛原郡川根町石風呂(右岸) 大井川
(2)路線名 一般県道 舟ヶ久保川根線 [着工時 組合道石風呂地名(停)線]
(3)橋 名 昭和橋(しょうわはし)」


ここには、県道昇格後の路線名が書かれていました。

【一般県道 舟ヶ久保(ふねがくぼ) 川根線】

この舟ヶ久保とはどこの事なのか?
地図で確認してみます。

舟ヶ久保川根線 Click!
国土地理院地図より

知らない地名だなぁと思っていたのですが、ここはお隣の藤枝市
現在の住所で言うと、藤枝市瀬戸ノ谷(せとのや)に当たるようです。
で、路線の一端がこの“舟ヶ久保”という地区だということは分かりましたが、もう一方を示す地名が“川根”では範囲が広すぎ…。
こういった古い路線について調べる術をまだ会得していないので、誰か詳しい人教えてください。

ところでこの一般県道 舟ヶ久保川根線ですが、どうやら現在欠番となっている、かつての静岡県道219号黒俣川根線の事らしい。(昭和57(1982)年11月1日廃止)
いつ、どんな経緯で名称が変わったのか?そもそも全く同じ路線なのか?
詳細は不明…。

この黒俣(くろまた)とは、舟ヶ久保よりもさらに北へ入った地区の事。

黒俣
GoogleMapより

住所としては静岡市葵区黒俣になるようですね。

では、県道219号が廃止になった現在はどのような区分になっているかと言うと。

昭和橋
国土地理院 航空写真より

こんな感じで、3つの県道、県道77号川根寸又峡線、県道63号藤枝天竜線、県道32号藤枝黒俣線のそれぞれ一部に分かれました。
第1話でも書いたように、昭和橋はこのうちの県道77号線に含まれます。

そして次に見るのは[2.概要]の中にあったこちらの項目。

(11)現橋
本橋より70m上流に、昭和31年6月竣功された、木造吊橋(W=2.0m L=193.8m)で老朽化が著しく度々の出水等による対風線の切断や、木造床板の破損により通行危険状態となっており、治水上、安全管理上不適当となっている。本橋完成後は管理組合により撤去される予定である。」


これは3代目架設時の、2代目昭和橋(吊橋)についての現状報告。
「2代目はもう限界だよ。」という内容ですね。
「(新橋が)完成後は管理組合により撤去」となっていますが、撤去費用は全額組合持ちだったのでしょうか?
また、3代目橋の完成から2代目橋が撤去されるまで約5年ほど期間が開いたようですが、どんな理由があったのでしょうかね?

さて、もう一つの項目がこちら。

(12)橋歴
昭和2年に木造吊橋を架設(L=223.0m)。当時大井川鉄道線も金谷千頭間が開通して左岸地名地区に停車場が置かれたので、これに通ずる橋を設け利用してきたと思われるが、昭和29年12月9日強風により倒壊。現橋は災害復旧事業として架設され今日に至っている。」


初代橋と2代目橋の経歴について簡潔に書かれています。
第3話までの調査では初代昭和橋(吊橋)は昭和3(1928)年1月の竣工としてきましたが、どちらが正解なのか。
出典は中川根町史だったのですが、ところどころ間違ってたりするからなぁ…。
思い返してみれば、“橋梁史年表”に記された開通年月日も昭和2(1927)年でした。
(ただし橋長や落橋の年月日などもピタリ同じなので、この資料が“橋梁史年表”を基に書かれた可能性も十分にあるんですよね…。もちろん『全てが正解だ』という場合もあるのですが。)
ここでは一旦、昭和2年開通説を採用しようと思います。

それから、「当時大井川鉄道線も〜」に続く記述について。
これだとなんだか大井川鐵道地名駅の開設が初代昭和橋の架設に繋がったかのように読めてしまうわけですが…。
とりあえず、金谷千頭間が開通したのは昭和6(1931)年、地名に駅ができたのは昭和5(1930)年の事なので、昭和2年とされる初代昭和橋の建設理由ではありません。
とは言え駿府鉄道株式会社のページで触れたように昭和2年以前から大井川沿線での資金集め・株式募集は始まっていたわけですから、当然「大井川鐵道の敷設予定ルート」は大衆の知るところであったはず。
さらに金谷地区では既に工事もスタートしており、それを見込んでの架橋、という可能性もゼロではないわけですが……まあ、無いかな…。
あ、昭和2年時点では地名駅ではなく石風呂駅が作られる予定だったのかな…?

次に気になるのは、「現橋(2代目吊橋)は災害復旧事業として架設され〜」となっている点。(2代目吊橋は、昭和31(1956)年6月竣工。)
時代によってその内容に差があるとは思いますが、“災害復旧事業”と言うと なんだか公的な事業として架設されたような印象を受けます。
しかし組合管理道であることは冒頭でも触れたとおりで、もしかしたら何らかの補助を受けられたのかもしれません。
【中川根町史】[県道、町村道などの整備・改修]の中に、このような記述がありました。
「1953年(昭和28)10月、徳山村長竹中節雄は、静岡県知事斉藤寿夫に対し、大井川総合開発計画に関連し、〜略〜 A大井川東西連絡の昭和橋・万世橋など五橋の整備・強化 〜略〜 などを陳情している。当時、大井川東西を結ぶ連絡橋は、県道に位置する下泉橋を除いて、町村組合道であり、林道は町村森林組合道であった。架橋建設や林道開削には莫大な経費が必要であった。55年12月に万世橋、〜略〜 などが建設・開削されているが、これらの経費は町村だけで賄いきれるものではなく、県費補助(四〜六割)を受けての工事であった。」

この時の“大井川総合開発計画”について詳細な資料を得ていませんが、上述の“災害復旧事業”と関連があるのでしょうかね?
FileNo.11 万世橋にて、わずかながら“大井川総合開発計画”について書いてみました。)
ここに出てくる五橋とは、大井川を渡る5つの橋。
昭和橋・万世橋(まんせいはし)淙徳橋(そうとくはし)中徳橋(ちゅうとくはし)・下泉橋の事だと思われます。
で、その後に続く文章で万世橋などが例に挙げられているわけですが、そこに昭和橋の名前は並んでおらず…。
しかし時期的に見てもこの一連の流れに沿った建設だったことは間違いなく、おそらく、『など』の一言に含まれてしまったのでしょう。
初代橋の建設においてはその資金集めにかなり苦労したことは第3話の余談で書きましたが、2代目橋は県から4〜6割の補助を受けての架橋となった事がわかりました。



そして最後に紹介するのは、こちらの一枚!

昭和橋
提供写真より

なんと、2代目吊橋と3代目永久橋が一枚に収まっている写真!
これまでの調査で判明しているように、昭和53(1978)年〜昭和58(1983)年の間に撮影されたものでしょう。
畑に囲まれた手前の広場は、旧葛籠小学校校庭ですね。
校舎の屋根もわずかに写っています。

まずは2代目昭和橋を拡大してみます。

2代目昭和橋 Click!
提供写真より

橋から真っすぐ、道路が伸びている!第2話参照

…と、言いたいところですが。
クリック後の画像に、おおまかな輪郭を乗せてみました。

繋がってないよ!

上の説明で書いたように2代目橋は3代目橋の完成後に撤去されることが決まっていたので、3代目橋の接続道(周辺道路)の整備と同時にこんな形になったと考えられるでしょうか。
わざわざ掘り下げなくてもいいんじゃあないか?とも思いましたが、あえてこうすることで、間違えて自動車が入りこまないようにしたのだと思います。

2代目昭和橋 Click!
提供写真より

そしてもう一点、新たに判明した事があります。
“かろうじて見えている状態”主索(メインケーブル)をなぞってみたのがクリック後の写真ですが、これを辿った先にある、写真左下に紫色で示した物体…。
これ、主索用のアンカレイジ(ワイヤー固定のための重り・コンクリート台座)で間違いなさそう!
第2話の現地調査編でもお伝えした通り、2代目橋を石風呂側に抜けた道は途中でゆるやかに右カーブを描きます。
特に障害物もないのにな、とぼんやり思ってはいましたが、理由はこれ。
このアンカレイジを避けるためだったんですねぇ。

2代目昭和橋 Click!
国土地理院 航空写真より

こちらは昭和42(1967)年に撮られたとされる航空写真。
まさに現役時代の写真ですが、うまく避ける様に道がカーブしているのが良くわかります。

このアンカレイジですが、現在では茶畑に姿を変えており それこそ跡形もなく…跡形も…あれ…?

2代目昭和橋 Click!
Google Map 衛星写真、ストリートビューより

何かあるな。

2代目昭和橋 Click!
Google Map 衛星写真、ストリートビューより

いや、その逆だこれ。

何もない。

何もない空き地がポツンと。
一見すると農作業用の荷役場としか思えませんが、それにしては形がやや中途半端。
これはもしや、コンクリートが地中深く埋まっているために茶の木を植えられない…とか?
どうにも所有者の方に聞いてみるしかないわけですが、可能性は高そうです。
それから地名側のアンカレイジ跡はどうなっているのか、こちらも確認の必要がありますね。

3代目昭和橋 Click!
提供写真より

さてさて、こちらが3代目橋
拡大してよく見ると、橋の袂にゲートのようなものが設けられています。
パッと見には、開通を祝うための飾りつけされた門のようですが…?
そしてさらに目を凝らすと、どうやらバリケードか何かで封鎖されていて まだ通れない状態のようです。

これは一体、どういう状況なのでしょうか?

山の影の付き方から見て、おそらく時間は朝方。
橋の影が長く伸びている事から、冬の頃の写真かと推察されます。
橋の塗装や路面が真新しく見える事、加えて上述のゲート…。
これはもしや、開通記念式典当日の早朝、つまり竣工日とされている昭和53(1978)年10月1日に撮影されたものではないでしょうか?

…などと、「この予想が当たっていたらアツイな!」なんて一人で勝手に盛り上がっていたわけですが…。

一応 日付の裏取りをしておこうと【中川根町史】を捲ってみた所、「開通式は同年の11月に行われた」みたいな事が書いてあったのを どう理解すれば良いと言うのか。
(その他、【中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌】 【図説 中川根の歴史】などでも「11月20日」とされていました。)
昭和53年10月竣工というのは橋名板に刻まれていた内容で、これに間違いはないはず。
しかし開通式はそれから約2か月後の11月20日と…?
橋は完成しているのにずっと “おあずけ”(通行禁止)状態だったのか、車両の通行は普通に開放しておきつつ式典だけを遅らせたのか、はたまたそれ以外なのか?
そして、この写真はいつ撮られたものなのか? どういう状況なのか?

結局のところ新しい謎がいくつも追加されるというスッキリしない結末。なんだこりゃ。




*** 追記 ***

【ありがとうを胸に 川根町閉町記念誌】(川根町企画課・2008)という本の中に、初代昭和橋の写真を見つけました。
それがこちら!

初代昭和橋 Click!
ありがとうを胸に 川根町閉町記念誌より

カッケェ…。
ここまでの調査のとおり、巨大な木造主塔によって支えられています。
この写真は石風呂側からの一枚ですが、どうやら大井川を渡る本橋から石風呂地区まで、小さな連絡橋で繋いでいたようですね。
(地名側は、第3話の動画で見たように本橋とは地続きでした。)

初代昭和橋連絡橋
ありがとうを胸に 川根町閉町記念誌より

下は畑か田んぼでしょうか。
橋の構造自体は本橋と同じように見えますが、上面が踏板ではなく『土』を敷き詰めているように見えるのは気のせいか?

そして、注目すべきは主索(メインケーブル)から吊られているかどうか。
吊られていればこれも昭和橋の一部ですが、吊られておらず独立していれば全く別の橋、と言えるでしょう。

んで、どうにもこれが吊られているようには見えないんですよね。
とりあえず、「石風呂連絡橋」とでも名付けてみようか。(勝手に)

そしてもう一点。
【日は沈み日は又昇る 創立35周年記念誌】(社団法人島田建設業協会・1983)という近隣の建設業に携わる会社を網羅した記念誌があるのですが、この中で見つけた1枚。

3代目昭和橋 Click!
日は沈み日は又昇る 創立35周年記念誌 、GoogleMap ストリートビューより

3代目昭和橋建設中の写真。
ちょうど舗装前、といったところでしょうか。
左奥に2代目昭和橋主塔が見えていますね。
この時はまだ吊橋撤去前なので、主索が張られています。
説明文にあるように、昭和40年代後半から昭和50年代にかけて道路の整備ラッシュが起きていました。
昭和橋もその例に漏れず、県道昇格直後の高規格道として建設されています。
そんな歴史をしっかり伝える一枚と言えますね。

*** 追記終わり ***




というわけで、ここまでで判明している年表を更新してみます。

0.橋が架かる以前    渡船による往来
1.初代 昭和橋(吊 橋)昭和 2(1928)年 ?月?日竣工〜昭和29(1954)年12月9日落橋 *荷車・自転車まで通行可の人道橋
2.2代目昭和橋(吊 橋)昭和31(1956)年 6月?日竣工〜昭和58(1983)年撤去      *(仮)自動車も通行可能
3.3代目昭和橋(永久橋)昭和53(1978)年10月1日竣工〜 現 行             *大型車も通行可能、歩道付き


まだまだこれからも、情報を集めていきますよ。




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