大井川鐵道の始まり
駿府鉄道株式会社
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第2話 組合との戦争がはじまる。
今話でも、論文
【大井川鉄道の成立―ある電源開発鉄道の建設過程―】(青木栄一・栗原清・1990)を基に進めてさせて頂きます。
あまりに現実味の無い計画であったためか、
大正9(1920)年1月20日付けで駿府鉄道は
ルート変更の届け出をします。
論文には以下のような説明が載っていました。
「静岡県志太村島田町を起点とし、同郡大長村、同郡伊久身村、同郡徳山村を経て同郡東川根村藤川に達する延長二十五哩三十鎖」
(二十五哩三十鎖=25マイル30チェーン=約40.84km)
国土地理院地図より
島田町(当時の静岡県志太郡島田町、現在の静岡県島田市)から大井川東岸を通って
東川根村藤川(現:川根本町東藤川)に至るルートです。
この計画時においても
主目的は木材の輸送であり、電源開発についての言及は全く無いようです。
申請を受けた鉄道院監督局は実際に現地に技術者を派遣・調査を行ったようですが、
「この変更は妥当なものである」との判断に至りました。
論文では、この調査の報告書にあるいくつかの項目を取り上げています。
簡単に紹介すると、
・藤川以北で伐り出した木材は大井川を流送し、千頭に巨大貯木場を設けて索道で藤川へ輸送。
そこから鉄道で島田まで搬送する計画である事。
・従来のように島田まで流送(川狩り・筏流し)すると洪水時の被害(堤防、田畑、建物の破壊など)は甚大である。
鉄道輸送に切り替えれば護岸設備の破壊や通船組合(明治初期には架橋も舟運も解禁されていた)との衝突もなくなり、経済的にも有利なのは明らかである。
などなど。
鉄道の敷設によるメリットはあまりにも大きく、非常に肯定的な内容だったようです。
しかし当然、
反対する声もありました。
鉄道開通によって仕事を失う恐れのある人々です。
論文では、起点である島田町の関連業者の動きについて
「強力な反対運動を展開したとされているが、解しがたい面があり、今後の調査にまちたい」
と述べるに留まっています。
このあたりについて、業種毎に分けて考えてみましょう。
まずは
大井川通船組合。
明治に入り通船が許可されてから、人々の往来や物資の輸送などを一手に引き受けていたのが
大井川通船組合。
しかし運行状況が天気・水量に左右されやすい事、なにより運賃が高額である事など、多くの問題を抱えていました。
鉄道が通ってしまえば舟運の需要が一気に落ちるのは間違いなく、反対するのは当然でしょう。
次に
木材業者(販売・加工など)。
上流域で大量に伐採された木材を鉄道輸送に切り替えた場合、流送による傷もつかず、大水による逸失もなく、迅速に、さらには安価に届くようになる。
そうなれば事業計画も立て易くなるし、これはむしろ好機と捉える人の方が多かったのではないでしょうか?
そもそも「製材業で賑わう町にさらに大量の木材が入ってくる」という話でもあるわけで。
論文で
「反対意見ばかりが強調されるのは解しがたい」とされているのは、こういった点です。
最後に
島田軌道。
島田軌道とは
国鉄東海道線島田駅から向谷
地区(当時の静岡県志太郡島田町向谷、現在の島田市向谷)までを結んでいた
人車軌道(人が押す鉄道)のこと。
明治31年4月8日に開通し、
昭和34年9月30日まで
62年間も続いたというその営業期間は、国内の人車軌道の中では最長記録だそうです。
距離は約2.9km、軌間610mm。
諸貨物の運送を目的とした路線でした。
五万分の一 家山より
向谷は、大井川上流域で伐採された木材の一大集積地でした。
ここに集められた木材は水門を通り、
現在の小川港(焼津市)から海運で江戸に運ばれていたといいます。
この向谷を始めとした島田の木材業界が爆発的な発展を遂げたのは
明治22(1891)年。
国鉄東海道線が開通し、島田駅を基点に陸路での輸送手段が確立された事が、急速な発展を促したようです。
この9年後に開業した島田軌道は、向谷〜島田間の木材輸送を効率的に行うために重要な役割を担っていました。
Click!
国土地理院 航空写真より
昭和21(1946)年に撮られた航空写真に、おおよその島田軌道のルートを乗せてみました。
クリック後の写真左端にある
【索道】とは、
FileNo05の五和側線で取り上げた、
五和〜向谷間の索道のこと。
もしこの時の大井川東岸を通るルートが実現していたら、この索道が生まれることも無かったでしょう。
さて、それではこの
島田軌道の関係者は駿府鉄道敷設案に反対していたのか?
自分は最初、
駿府鉄道が向谷〜藤川間を新規に敷設して島田軌道を介して島田駅まで結ぶという事なのかな?とぼんやり考えていましたが、
大ボケもいいとこ。
両社は
全くの別会社・別路線であり、
商売敵と言って差し支えないような事業計画だったわけです。
しかも駿府鉄道が
蒸気機関車による運行を計画していたのに対し、島田軌道は
人力が動力源。
輸送力の差は歴然であり、実現されてしまえば大きな痛手となるのは間違いありません。
もちろん業務提携や何やらで両者が得をするような交渉の余地もあったかもしれませんが…。
なんにせよ、島田軌道全体としては反対意見の方が強かっただろう、と推察されます。
(向谷、及び島田の木材業についての歴史は
島田木材協同組合様のWEBサイトを参考にさせて頂きました。)
これらの反対運動がどのように働いたのかまでは分かりませんが、
大正10(1921)年7月6日に駿府鉄道が地方鉄道法による旅客・貨物の運輸営業免許を取得した際には
「将来島田軌道に損害を与えたるときは政府の指示する所に従い相当補償の途を講ずべし」という条件が付いたようです。
もし仮に島田軌道が廃止に追い込まれた場合、
その影響は非常に大きいと判断されたのでしょう。
ただ、
通船組合に対しての補償云々といった項目は無いようですね。
先述の調査書でも
「舟を曳いて急流を遡る原始的運輸方法〜」「解散も止む無し」といった内容が報告されており、将来的な見地からもあまり重要視されていなかったのではないでしょうか。
さて、監督局のOKサインまでもらったにもかかわらず、この計画もまた
実現しませんでした。
一番大きな理由は
資金不足。
当時の地方鉄道敷設計画としては
巨額な資金を必要とした事(トンネル・橋梁の数が多く、単位距離当たりの建設単価が大きかった)に加え、
第一次大戦後の不況(戦後恐慌)が重なったのが大きな原因と見られています。
改めて計画の大幅な見直しを余儀なくされたわけですが、この修正案には
さらなるルート変更が含まれる事になりました。
この続きは
第3話で!
さてここからは、
具体的なルートについて見ていきたいと思います。
私の大井川鉄道回顧録〜その1〜より
この図は論文とは別の書籍からの引用ですが当時の計画書ではなく、後年になって
“このような想定だったのだろう”という大まかな説明ために作られたものだと思われます。
橋梁は記されておらず、トンネルは描かれているもののとても
大雑把な印象です。
とは言え予定されていた駅については正しいようなので、これを参考に区間ごと見ていきます。
私の大井川鉄道回顧録〜その1〜より
まずは
島田〜下相賀間
図には国鉄東海道線(駅名を平仮名で表記)が描かれているのが分かります。
その少し上に実線で描かれている(地名を漢字で表記)のは主要道かと思いますが…。
駿府鉄道は国鉄島田駅から北へ向かい、
向谷に駅を設ける予定だったようです。
上述のように向谷は上流域の生産物及び木材の一大集積地。
ここに駅を置きたいのは当然とも言えますね。
ただその場合は、
島田軌道や
通船組合相手の難しい交渉を避けて通れなかったことでしょう。
そして次の予定駅は
下相賀。
志太郡大長村相賀、現在の島田市相賀に当たります。
住所としての“下相賀”は存在していませんが、当時はどうだったのでしょうか?
向谷からここまでの大井川沿いには平地が少なく、現在の静岡県道81号線とほぼ同じルートを辿る予定だったと予想します。
私の大井川鉄道回顧録〜その1〜より
続いて
下相賀〜身成間
途中、このサイトではお馴染みの【
神尾】に点が打たれていますが これは大井川の対岸であり、駅予定地ではありません。
そのすぐ上で大井川に流れ込んでいる支流が【
伊久美川】。
ついさっき
『大雑把な地図だ』と書いておいて何ですが、
トンネルでどうやって伊久美川を越えるというのでしょうか…。
まあそれは冗談として、おそらくここにも駅を設けようと言う目論見はあったはず。
それは、この伊久身地区と島田を結ぶ陸路が
とても険阻であったから。
生産物の出荷など、東の檜峠を越えて
瀧澤地区(当時の志太郡瀬戸谷村瀧澤、現在の藤枝市滝沢)へ運ぶ方がマシだったと言うのです。
Click!
五万分の一 家山より
舟運が始まった明治以降においてもそれは変わらず、ここ
伊久身地区やさらに上流の
笹間地区は藤枝の商人達との結びつきが強かったとの事。
しかし鉄道さえ開通してしまえば、
特産品である茶や椎茸も大井川沿いに南下させて 島田の商圏に取り込む事ができる。
あくまで木材輸送メインの敷設計画ですが、そんな算段もあったのではないでしょうか。
さて、ここを流れる川が
【伊久美川】である事は既に書きましたが、この地域は
【伊久身】のはず。
この違いは何なのか?
今回の記事を書くにあたって ちょっとだけ調べてみましたが、これは次の駅予定地である【
身成】にも関係していました。
まず
明治22(1889)年4月1日、
志太郡伊久美村、身成村、笹間渡村が合併し、
伊久身村として村制が施行されます。
Click!
五万分の一 家山より
この時に
【伊久身】という地名が誕生したようですね。
上の地図は村制施行後のもので、伊久身村はかなり広範囲だったことがわかります。
そして
昭和30(1955)年1月1日、
旧・伊久美村と旧・身成村の南部(丹原、鍋島、川口)が島田市に、
旧・身成村の北部と旧・笹間渡村が榛原郡下川根村(旧榛原郡川根町)に編入され、伊久身村はなくなります。
これにより、古くからあった
【身成】という地域は南北に分かれることに。
GoogleMapより
これが
現在の行政区分。
この二つの地区を合わせた範囲が、
【旧身成村】だったと考えて良いみたいですね。
今回検証しているルート上にある
【身成駅】の位置を見てみると、それを示す点が家山地区の対岸あたりにあるので
川根町身成地区の方で間違いないようです。
私の大井川鉄道回顧録〜その1〜より
続いて
身成〜堀之内間
当然の事ですが、現在の
抜里〜笹間渡間に架かっている有名撮影スポット
“大井川第一橋梁”は、このルートが実現していたら存在しませんでした。
【笹間川】を越えるあたりに
東海紙料(現:新東海製紙株式会社)発電所の文字が見えますが、【
地名】の所に何やら印があるので これは
地名発電所の事のようです。
そこから上流に向かったところで大井川に流れ込んでいる支流は
【下泉河内川】
さらに上流には
【上長尾】の地区名が見えます。
一つ前で触れた
身成地区の対岸には
【家山】と言う大きな集落がありますが、この
上長尾周辺も同様に人口の多い地域となっています。
しかしご覧の通り、駿府鉄道はどちらの地区も
対岸を素通り。
鉄道が停まれば それなりに貨客量が見込めるはずですが…。
大井川に橋を架けるとなれば さらに予算が嵩んでしまうのはわかりますが、こうまで徹底して
木材輸送重視であったことはとても興味深い。
どうやら自分が想像しているよりも、ずっと
貨物鉄道色が濃かったようですね。
もっともこれは、観光に重点を置いた現在の大井川鐵道を見すぎているせいかもしれませんが…。
あ、そうなるとやはり
伊久身駅を作るつもりはなかった事になるのか…。
蒸気機関車の運行がメインなら、どのみち 一定の距離で水・砂 補給のための駅が必要だったはずではありますが。
私の大井川鉄道回顧録〜その1〜より
最後に
堀之内〜藤川間
堀之内というのは、現在の
川根本町徳山。
駅で言えば
【駿河徳山駅】ですね。
対岸に
【藤川】という地名が見えますが、これは
川根本町元藤川地区。
終点予定地の
藤川(千頭地区の対岸に位置する。現:川根本町東藤川)ではありません。
路線はさらに遡上し、
【小長井河内川】にぶつかった所で切れています。
ここが
終点予定地の藤川。
のはずですが…。
この図では
『せんづ』となっていて、論文の表記とは違っていますね。
ちなみにその上に見切れているのは おそらく
『日英発電所』。
第1話でも触れた、
『小山発電所』の事でしょう。
さて、こんな感じで辿ってみましたが…。
ここから現在の大井川鐵道へは どのように変化していくのでしょうか?
第1話
第2話
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