大井川鐵道の始まり

駿府鉄道株式会社

第1話 第2話 第3話
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第3話 「ほら見ろ。西岸走っているじゃないか」


今話でも、論文【大井川鉄道の成立―ある電源開発鉄道の建設過程―】(青木栄一・栗原清・1990)を基に進めてさせて頂きます。

本サイト中の全記事に言えることですが、対象としている時代がなかなか古いため地名(行政区分・住所)がイマイチ分かりづらいと思います。
そこで、こんな図を用意しました。

大井川中流域の行政区域変遷図

地名は、大井川に面している地域このサイトの記事に関連している地域を重点的に掲載しています。
カッコ内は、実際の地名ではないが大井川鐵道の駅名となっている場所です。
もちろん本来はもっと複雑な過程を経ていますが、あくまで補足の為の仮図ですからね。ご参考までに。
将来的には【完全版】を作りたいと思っていますが…。
間違っている点があればご指摘ください。



さて、初期の敷設計画同様、資金の目途が立たずに第2案も頓挫します。
あまりに進展が見込めないためか、当初から参加していた発起人たちも徐々に離れていったようです。

しかしここにきて、事態は少しづつ動き出します。
まず大正11(1922)年4月23日の発起人会で、駿府鉄道株式会社は社名の変更を決議します。

その新社名とは…
【大井川鐵道株式会社】

ここでようやく大井川鐵道という名称が誕生したわけですが、なぜこの名称・このタイミングでの変更なのかについて、ハッキリとその理由を書いている資料は見つかりませんでした。
まあ大井川沿いを走るのだから【大井川鐵道】で何の問題も無いんですけどね。
ただそれなら、第2案の時点で大井川鐵道にしても良かったのでは?と思うわけです。

で、これは勝手な推論ですが、第2案の時点では『大井川鐵道に変更しなかった』のではなく『駿府鉄道のままでよかった』からではないかと考えています。
上の変遷図にも記したように、明治時代初期まで大井川の東側は駿河国、西側は遠江国でした。(“駿府”とは駿河府中の略)
第2案の予定ルートを思い出してみると、駿河側(大井川東岸)しか通っていないわけですね。
つまり『駿府鉄道』である事に何の不都合も無かったからではないかと。

第2ルート案
私の大井川鉄道回顧録〜その1〜より

では今話で取り上げる第3案では何が変わったのか?

社名変更を決議したのと同じ年の11月、大井川鐵道は新たなルートへの変更を申請します。
論文から引用すると、
「同年11月8日、建設予定ルートを再度変更する事を申請し、金谷町―五和村―下川根村―中川根村―徳山村―東川根村間27マイル40チェーンとした。すなわち、従来のルートが主として大井川東岸を通過していたのに対し、中川根村以南では西岸を主とするルートに変更したのであった。」
なんと、新ルート案では駿府側だけでなく遠州側も通る計画となったのです。
それも一部区間だけの話ではなく、起点さえも遠州側に来る事に。

「これは【駿府鉄道】を名乗るわけにはいかないな」って意見が出たんじゃあないですかね?
そしてこの予想が正しければ、社名変更の申請を出した4月の時点で この新ルートの選定はある程度済んでいた、ということになるのでしょう。
ちなみにこの新案においても、線路敷設の主目的が木材輸送である事に変更はなかったようです。

ところで、何故 起点を島田から金谷に変更したのでしょうか?
その理由が【起業目論見書変更理由書】に記されているとのこと。
要約すると
〇大井川両岸を比べると、西側の方が平地が多い。
〇天龍川(天竜川)流域との交通上の結びつきがあり、人口、物資の集散などから功利的であること。
〇東岸には地すべりや崩壊をおこしやすい蛇紋岩地域があること
となるようですが…う〜ん…。
これはむしろ、「島田町起点案がうまくいかなかったから」というのが本音のような気もしますが、どうなんでしょうか?

ともあれ この変更案が良い印象を与えたのか、金谷町や西岸諸村の有力者が続々と発起人に加わり、株主になっていったとされています。
しかし残念ながら、これでも資金不足を解消するには程遠かったようです。
新ルートになったからと言っても必要な建設費は大して変わらなかった上に、新しく増えてきた株式購入者はいずれも小口ばかり。
資金集めの難航は、相変わらずでした。

そんな折、発起人の一人であった静岡火力発電社長熊沢一衛氏(以下、敬称略)は、当時 日英水電の委員を務めていた中村圓一郎に相談を持ち掛けます。
「どうにかならないか?」と。

中村圓一郎の像
我が社の足跡より

この中村圓一郎という名に聞き覚えのある人もいるのではないでしょうか。
中村は吉田村の大地主・投資家・貴族院議員であり、後に大井川鐵道の初代社長を務める人物。
駿府鉄道計画の初期の頃から発起人の一人ではあったようですが、表立った記録が残っていないことから、当初は ただ名前を貸していただけだったのではないかと思われます。
写真の銅像は初代のものですが 戦時中に供出されてしまいました。
現在 千頭の川根本町北部地域振興センター前の小高い丘の上でみられるものは、昭和36(1961)年に再建されたものです。

中村は大正10(1921)年東邦電力及び東京電力の社長であった松永安左ヱ門と共に、ちょうど大井川周辺での発電事業を計画していたところでした。
しかし発電所の建設には膨大な資材の輸送が不可欠。
舟運に頼るしかない大井川筋においては、とても採算の合う話ではなかったのです。
そんな彼らにとって大井川鐵道の敷設計画は まさに渡りに船。
これを好機と捉えた中村は各方面の閣僚たちや東京の発電業界を説得し、協力を得ることに成功します。
また当初からの事業目的である木材輸送についても、大井川奥地の大山林所有者であった大倉喜八郎の支援を取り付け、大正13(1924)年11月の発起人総会で正式に総代となりました。

中村は敷設に必要とされた予算額を半分ほどに圧縮し、当面募集すべき資本金の額を一気に引き下げます。
まずは計画路線の沿線住民らから株主を募りますが、これが思うように集まらず…。
最終的には、必要な予算の約2/3が東京電力系の資本によって賄われたというのが実情のようです。
公式な申請書などに記載されている敷設目的に『大井川の電源開発』という項目が盛り込まれたのかどうかは定かではありませんが、これがなければ資金も集まらず、計画は潰えていたことでしょう。

中村圓一郎の像
我が社の足跡より

こうして大正14(1925)年3月10日、大井川鐵道は会社の設立に成功。
翌年の6月2日、ついに建設工事に着手したのでした。



さてここからは実際の路線について見ていきますが、内容的には FileNo.3 の記事と被っています。
一応、あちらは駅構内設備(転車台)に注目した内容としたつもりなので、このページでは建設に関わる人々や沿線住民の動き、そして建設そのものを重点的に書いていこうと思います。
FileNo.3 と併せてご覧ください。

大正15(1925)年6月2日、新金谷駅建設予定地で盛大な起工式が行われました。
起工式の後には金谷河原・金谷町グラウンドで祝賀の宴を張った、と【我が社の足跡】(大井川鉄道株式会社・1940)に記されていました。

まずは施工認可の下りている金谷〜家山間の開通を目指したものの かなりの期間を必要とすることから、とりあえず金谷〜横岡分岐-(支線)-横岡間の営業を目標とします。

大代川橋梁 Click!
我が社の足跡、GoogleMapストリートビューより

写真は昭和15(1940)年頃大代川橋梁
全線が電化される前なので、架線柱は建っていません。
道路が舗装されていたり家が建っていたりという違いはありますが、雰囲気はそのままですね。
現在ではこの金谷〜新金谷区間をSLが走ることはありません。
写真右手の築堤の向こう側には、SLの心臓部ともいえるボイラーを整備するための工場、『株式会社東海汽缶 蒸気機関車整備工場』が新設されました。
令和4年に行われたクラウドファンディングを活用し、C56 135号機のレストアが行われています。

新金谷駅舎 Click!
我が社の足跡、GoogleMapストリートビューより

こちらは当時の新金谷駅駅舎、クリック後が現在の様子です。
建築年は昭和2(1927)年。(着手は昭和元年)
会社設立の2年後ですね。
「戦前に盛んに建設された地方鉄道の様相を伝える社屋兼駅舎」として、平成30(2018)年国の「登録有形文化財」に指定されました。
文化遺産オンラインに詳細があります。)

本線に話を戻すと、昭和2(1927)年6月10日、金谷〜横岡間で一般運輸営業の開始となります。(FileNo.3参照)
横岡にあった川港は流送された木材の水揚げ場でもあり、支線とはいえ大層繁盛したそうです。

また、この時には本線の工事も並行して進められ、昭和3(1928)年7月20日には横岡分岐〜居林(現在は廃止)が開通、貨物営業を始めます。
この居林駅についてはまだまだ謎が多く、いずれ別ファイルにて紹介する予定ですのでお楽しみに。

そして次に通過予定の福用駅近辺の動きについてなんですが…なぜだか資料が見つかりません…。
見つけ次第、追記していきますのでね。

さて、次の目的地である家山駅に向けての工事は進んでいきますが、一番難航したのは用地の確保だったようです。
この時、下川根村ではかなり強い反対運動が起こったというエピソードが、【静岡県鉄道軌道史】(森 信勝・2012)に書かれていました。
「川根町の中心地 家山 は 山と山にはさまれ平地が少ない。家山に限らず、抜里も、地名も、塩郷もそうだ。たとえ公共色の強い鉄道でも、土地を奪われることに、かなり激しい抵抗があった。しかも当時、大井川右岸(遠江寄り)の川根町の住民は鉄道建設自体には賛成だが、おれたちの土地を奪ってまで鉄道は建設したくないという心持ちと、もともと大井川鉄道は前身が 駿府鉄道株式会社 であったように駿河の連中が建設計画を立てたのだから駿河側(大井川左岸)に鉄道を通せと反対したのである。」

まずは後半部分から。
大井川は江戸時代から(慶長6(1601)年の伝馬制度からという説有り)架橋禁止・渡船禁止であることはこのサイト内でも再三述べていますが、これは交通上不便である事だけでなく、地域の人々の生活・交流にも大きな影響を与えていました。
明治になって橋が架かり、往来や交易が盛んになるまで 対岸の集落にどんな人が何人くらい住んでいるのか誰も知らなかった、というエピソードも聞いたことがあります。
実際には全くの断絶状態だったわけでもないようですが、300年に渡る没交流がどんな影響を与えるかなど、想像もつきませんね。

次に前半の土地問題について。
これをどのように解決したのかについて具体的に書かれてはいませんが、同書の居林付近の工事に関する記述に続いて興味深い文章がありました。
「千頭駅も家山駅も河川敷の中にある。ここは川底に、いくつもの石を敷きつめた。当時トラックがなかったから河川の石を舟で運び、トロッコに入れ替えて馬で引っぱらせた。今も駅の構内の地下には、ものすごい数の敷石があるはずだ。」

そして、こちらの写真。

千頭駅の建設
ふるさと本川根 目で見るふるさと百年史より

これは終点千頭駅の建設の様子。
写真の注釈には「川原から土砂を運び河川敷を埋めたて、河岸には堤防を作る。永い年月をかけて、頼りは、馬とトロッコそしてスコップ、まさに人海戦術であった。」とあります。
別々の書籍からの引用ですが、内容はピタリ一致。
これらの内容から、家山駅建設用地の確保に当たっては 既に宅地や田畑として利用されている土地の買収は諦め、(全面ではないにせよ)新たに大井川を埋め立てる事で実現したのだろうと考えられます。

家山駅 Click!
ありがとうを胸に 川根町閉町記念誌より

これが昔の家山駅の様子、と言っても詳しい年代などは不明なのですが…。
写真奥には、白く真新しく見える家山橋(道路橋)が架かっていますね。
“橋梁史年表”によると初代の家山橋昭和6年(1931)の竣工となっている事から、少なくとも昭和6年以降の写真のはずです。

その家山橋の左手に見えるのが家山川橋で、こちらは大井川鐵道の鉄橋です。
単純プレートガーダー橋で橋長は約154m。
昭和4年(1929)12月1日の竣工ですが、昭和28(1953)年に発生した台風13号の水害によって倒壊。
少し下流の了玄(現在の桜トンネル付近の字名。謂れについては川根温泉公式サイト内にある近隣観光のページで読む事ができます。)に仮停留所を設けて、翌年の橋梁改修工事が完了するまで家山駅までバス連絡をした、と記録にあります。
このアングルだと妙に橋桁が多いように感じますが、数は今と同じはずです。

それにしても、この家山駅構内。
想像よりも広い…なぁ。
土地問題で難航したという割には、かなり広く感じます。
右奥の木材が山積みになっている土地は持ち主が違う可能性もありますかね?

写真左側(大井川側)を見ると、簡易な堤防(土手)が築かれているように見えます。
果たしてこの写真の、どこまでが埋め立て地なんでしょうか?

*** 追記 ***

この写真ですが、最初にアップロードした時から差し替えさせて頂きました。
【ありがとうを胸に 川根町閉町記念誌】(川根町企画課・2008)という本で見つけたのですが、最初にアップした写真は左側が切れていたようです。

この発見によって分かった事がいくつかありますが、まず一番左側(大井川側)にもう一本の線があった事。
これは金谷行き上り線のようですね。
つまり中央に写っているのは、現代同様 千頭行き下り列車。
こちらに向かって走ってくる列車ということになります。
影を見て分かるように一輌のみで完結している事から、昭和5(1930)年10月から導入されたというガソリンカーで間違いないでしょう。(FileNo.3参照)

構内設備としては、やたらとゴツイ手動ポイント切替器が目立ちます。

家山駅 Click!
ありがとうを胸に 川根町閉町記念誌より

これは【リバー式転てつ転換器】という物なのでしょうか?
こちらは同誌の別写真ですが、どうやら3ヶ所のポイントを切り替えているようです。
(上下線の切り替えと、側線の切り替えと、あと一つは…??)

そしてもう一点、興味深いのは堤防の上に何かの木が植えられている事です。
現在の家山駅では 上り線横の堤防は桜並木になっており、訪れた人々の目を楽しませています。
予想では、おそらくこの頃からの木を植えていたのではないかと思うのですが…。

「この時代に植えられた桜の木が、今なお 家山の春に鮮やかな色を添えるのです。」

そんなナレーションで終わるとは限らないのが事実というもの。
続きをどうぞ…。

*** 追記終わり ***


被災した家山駅
私の大井川鉄道回顧録〜その1〜より

こちらの写真は、昭和28(1953)年9月25日、台風13号により被災した家山駅の様子。
上述の家山川橋の倒壊を引き起こした水害によるものです。
上り線の路盤が洗堀され、完全に線路が落ちています。
堤防も、そこに並んでいたかもしれない桜の木も、全て流されてしまいました。
竹製の蛇篭がいくつも見えますが、元々どのように使われていたのかまでは分かりません。
ホーム下の基礎?だけは造りが違うのか、ピッタリそこまで、水に浚われたように見えますね。
埋め立てによって造成した土地であったが為に洗堀被災には弱かった、とは考えすぎでしょうか。

こういった水害は、規模の大小こそあれ ほぼ毎年のように起こっていました。
大井川流域の歴史は、水害との戦いの歴史と言っても過言ではなかったのです。



とまあ何にせよ家山駅に関わる土地問題は一応の解決を見たわけですが、用地買収はこの先もずっと付きまとう問題でした。
しかも、会社設立時までに工面した資金はここ家山駅までの建設費でほぼ尽きているという状態。
(もっとも、途中で足りなくなる事は最初から分かっていたわけですが…)
こういった一部住人らの強い反対運動を受け、大井川鐵道の首脳陣はある決定を下します。

それは、大井川に橋を架け駿河側へ渡る というものでした。

当然 莫大な資金が必要となることから、大鉄幹部の間でも かなり揉めたようです。
もともと幹部達は、「ずっと大井川西岸(遠州側)を走らせれば橋を架ける必要もなく費用が安く、工期も短期間で済む」と安易に考えていた、と資料にありました。
このことは、通過予定地として終点直前まで大井川西岸の地区名が並んでいた事からも分かります。
しかし上記のような反対運動を受けたために急遽 路線の変更をし、土地買収に奔走。
そして昭和4(1929)年4月5日に工事認可を受け、翌6日には家山〜塩郷間の工事に着手した、という事のようです。

当面の問題は、さらなる建設資金の調達・増資をどう実現するか。
折しもこのころの財界は不況が悪化する一方で、一般株主からの調達は思ったように捗りませんでした。
この窮地を支えたのは大株主の宮内省(皇室事務を司る官庁で、奥大井の御料林開発を目的とした出資だった。)、電力系関連会社、山林所有者でした。
これらに加えて、愛国生命保険株式会社(後に日本生命に吸収される)からの融資も大きかった【我が社の足跡】に書かれています。
しかしこの増資により沿線住民らの株式保有率は急落し、地域外、特に大株主への株式集中が顕著になっていった事も重要なポイントです。

と、紆余曲折ありながらも昭和4年(1929)12月1日、金谷〜家山間は旅客営業を開始したわけですが…。

ちょっと…どうにも腑に落ちないんですよね…。

この一連の『反対運動から大井川架橋に至るまでのプロセス』【静岡県鉄道軌道史】や、大井川鐵道の関係者向け資料である【我が社の足跡】を基にした内容です。
で、「反対運動があったから対岸へ渡る」事自体に矛盾はないのですが、問題は場所。
大井川を渡っている「大井川第一橋梁」は、抜里(ぬくり)地区の平野部北端あたりに起点が置かれているのです。

大井川第一橋梁 Click!
国土地理院地図より

つまり、反対運動が起きたという家山地区を通過し、さらには上流側にて隣接する抜里地区もほぼ通過しているという事です。
そしてそこからは連続する断崖と、鵜山の七曲りという大井川の大蛇行地帯に阻まれる区間が始まり、しばらくは集落どころか畑すらも無い、そんな地点まで来てようやく大井川を渡っていると。
これでは『反対運動を受けての架橋』という話の筋が通りません。

これは推測になりますが、「反対されたから」駿河側に移ったという理由よりは、 駿河側の方が「工事に向いていたから」という理由の方が強かったのではないでしょうか?
抜里を越えてさらに大井川西岸を進むとなると、全長2km近い長距離トンネルを掘るか、居林〜神尾区間のように崖下にへばり付くような危険なルートを取るしかありません。

鵜山の七曲り
我が社の足跡より

対して東岸はどうか?
こちらはこちらで、笹間川を越えたりトンネルをいくつも掘ったりと、やはり楽な工程とは言い難い。
それでも大井川を渡って東岸に移る方が(西岸を無理に進むよりは)費用・工期などの面で利がある、との判断が強く働いたのではないでしょうか?
しかし最初に「西岸を進む」と各地域に宣言して資金集めを行った以上、何かそれに見合うだけの理由が無ければ出資者や住民の納得は得られません。
『反対運動を受けての架橋』という理由は、出しに使われたのではないか?
どうしても そんなふうに勘繰ってしまうのです。
まあ資料にそのように書かれていない以上は、妄想でしかないのですけどね。



さて、舞台は下川根村・伊久身村を抜けて次の区間、中川根村・徳山村へ移ります。
上で書いたように昭和4(1929)年4月6日時点で 既に家山から先の工事も進められていたわけですが、それは抜里を過ぎた地点で大井川を渡り、笹間渡から東岸を北上するという想定外のルートでありました。

では、これより先の中川根村・徳山村でも家山地区と同様の反対運動が展開されたのでしょうか?

今のところ、反対運動が起きたような記録を見つけてはいません。
中川根村・徳山村 及びこれより上流にある地域においては、他ファイルでも取り上げているように 既に東西方向の商圏が確立されていました。
しかし、その交易・交通の為の道のりは 東西どちらへ向かうにも険しい峠を越えねばならず、長く危険なものであったことは間違いありません。
上流域の人々にとって安定して大井川を南北に繋げる交通手段は、むしろ歓迎すべきものであったはずなのです。

まず敷設計画の予定路線が公表された時点では、中川根村は大井川鐵道が村内を通過するものだと思っていたようです。
起点が大井川西岸の金谷町に変更され、天竜方面との交易を評価するようなその変更理由もあり、さらには冒頭でも引用したようにハッキリと
「静岡県榛原郡金谷町を起点とし同郡五和村 同郡下川根村 同郡中川根村、同県志太郡徳山村(を経て)同郡東川根村藤川に達する延長弐拾七哩四拾鎖とす」
という話だったわけですから、これは当然と言えるでしょう。
そもそも会社幹部でさえも そのつもりでいたわけですから、なおさらです。

しかし実際の建設段階になってみれば路線は無情にも笹間渡手前で大井川を渡り、そのまま北上、徳山村地名・塩郷・下泉を通過するという話に変わっているではありませんか。
中川根村全体で見れば、『鉄道が村内を通るという話だったからこそ、会社設立時の株式募集に際しても協力的な態度をとってきた』わけで、これは到底受け入れられるような事態ではありませんでした。

それでも再び大井川を渡って西岸へ戻る望みがあると見たのか、塩郷地区の対岸に当たる久野脇区からは
 第1希望:塩郷地先から中川根村久野脇字 真黒原(まごばら) へ渡る路線か、
 第2希望:塩郷地先から中川根村久野脇字 恋金(こいがね) へ渡る路線へ計画を変更してほしい。
と会社に陳情したという記録が残っているそうです。

久野脇区有文書
久野脇地区簡略図(恋金と真黒原の境界は少々あやふやです…)

結果としてこれは受け入れられず、路線は塩郷を通過し、大井川東岸を進んで行きます。
「再び大井川を渡るために橋を架けるのは予算的に厳しい」というのが一番の理由でしょう。
まだこの段階では終点を東岸の藤川に定めていたので、ここで西岸に渡ってしまうと橋を2本架ける(再び東岸に戻る)必要がでてしまうから、という考えもあったはずです。

またこの次には、その先で通過する予定の徳山村田野口地区と、当初 村内を通過するものと思っていた中川根村との間で激しい誘致合戦が繰り広げられました。
昭和4(1929)4月、田野口側は「駅さえ作ってくれれば、用地確保に協力する」といった内容の請願書を会社に提出しています。
一方の中川根村側も黙っておらず、同年5月に会社に陳情書を出します。
要約すると、「路線が中川根村を通るというから株式募集など協力してきたのに、東岸を通過するという噂が流れているのはどういう事なのか?下長尾・上長尾・水川の人口の多さは東岸の比ではなく、周智郡との交易も盛んであり、やがて交通の要地となる。(FileNo.7,FileNo.9参照) 橋を架けるのに多額の資金が必要なのはわかるが、将来的な見地に立って、人の多く住むこちら側を通すべきである。是非とも下泉から大井川を超えて下長尾へ渡り、上長尾を通るように検討して頂きたい。」と言った内容。

このような動きを受けて、大井川鐵道側も どちらを通るのか早期に決断する必要に迫られる事態に。
その結果、路線は東岸をそのまま北上、田野口を経て堀之内へ至る路線が採択されます。
やはり資金不足は如何ともしがたい現実だったのでしょう。
この決定について昭和4(1929)年9月1日、上長尾小学校にて住民への説明会が開かれたとあります。
説明会の詳細については資料が残されていないようですが、落胆や憤りの声が聞こえたのは間違いないでしょう。
また、「次善策としての道路改修補償金についてなど様々な話し合いが持たれたものと思われる」と中川根町史は綴っています。

思えば久野脇橋(恋金橋)が大井川鐵道全通から1年後の昭和7(1932)年に架けられたこと、(FileNo.3参照)
同じく昭和7年架橋とされる下泉橋には、大井川鐵道から多額の寄付金が出されたこと(FileNo.9参照)などは、いずれも中川根村を通らなかった事に対する補償の一部だったのではないでしょうか。
実際、FileNo.3でも取り上げたように、終点を藤川から千頭に変更した際も同様の補償(川根大橋の架け替え費用負担など)があった事がわかっています。



この後は、昭和5年(1930)7月16日に地名、同年9月23日に塩郷、
翌年の昭和6年(1931)2月1日に下泉、同年4月12日に青部(仮)駅までの開通を果たします。
駿河徳山駅では、開通を祝う記念式典が盛大に行われました。

大井川鐵道旧駿河徳山駅
我が社の足跡 より

またこの年の8月、終点予定地が東川根村藤川から上川根村千頭に変更されます。
この一連の顛末についてはFileNo.3の方で書きましたので、そちらをご覧ください。

ここを超えてラストスパートである青部〜崎平〜千頭間は、わずか延長3.5kmの区間に片勾配の田代トンネルや大井川を渡る3本の架橋と、全線中最難関の工区となりました。

大井川第4橋梁
ふるさと本川根 目で見るふるさと百年史 より

そして会社の設立から4年後の昭和6(1931)年、大井川鐵道はついに金谷〜千頭間の全通を果たします。
これは大井川水系における電力開発競争の幕開けを意味しました。
最終的に大井川鐵道の幹部はほぼ電力会社の人間が占め、株式で見れば宮内省、大井川電力、東電証券の3者で全株数の57.4%を占める結果となった事が記されています。

大井川鐵道の全通は、川根地域に大きな影響を与えました。
東西を結ぶ橋梁の建設各駅を中心とした道路網の整備など、まさに交通革命と呼べるほどの出来事だったのです。
しかし同時に、需要が激減した川根電力索道木材の流送、通船業などは衰退、廃業へと追い込まれていきます。



その後の大井川鐵道についても少し。
昭和10(1935)年3月大井川専用軌道(後の井川線の一部)開業を皮切りに千頭以奥の開発がスタート。
昭和19(1944)年6月、初代社長の中村圓一郎は病気のため辞任、専務取締役だった結城安次が2代目社長となります。
昭和24(1949)年全線を電化。
昭和51(1976)年のSL保存運転開始を経て現在へと至ります。



さて、大井川鐵道の路線計画の変遷(注:非公式です)について長々と追ってみましたが、いかがだったでしょうか?
今回の調査で初めて知ることも多く、あれもこれも盛り込もうとした結果、余計に分かりづらくなった点もあるかもしれませんが 生暖かい目で見てやってください。
会社設立から全通までを時系列順に追っていくという手法を取るしかなかったので、FileNo.3の記事と内容が被らないよう頑張ってはみましたが。
全通後の会社の動きについては…どうしましょうかね…気が向いたら、ですね…。




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