東西を結んだ交易路
下泉橋
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第1話
第2話
第3話
追記編:第4話
再調査編:第5話
第1話 どんなふうに渡ってもいい時代になりました。
「箱根八里は馬でも越すが…」というお決まりの文句から始めて、大井川に
橋も船渡しもなかった件について真面目に考察した後、下泉橋の歴史に繋げていこうと考えていたのですが…。
うまくまとまらなかったので、その導入部は
ボツになりました!
2週間も書いてたんですけど。
まずは今回の舞台について。
国土地理院地図より
大井川鐵道下泉駅を出て、
県道77号線を北へ向かいます。
途中、消防団の詰所がある所で
県道263号【春野下泉停車場線】にバトンタッチしますが、そのまま直進。
およそ100mほど進んだところで今回の物件、
【下泉橋】となります。
下泉橋を渡った対岸は下長尾地区。
県道263号は右へカーブした後、2〜300m程で
国道362号線に道を譲る形で終了となります。
GoogleMapより
初っ端から脱線しますが、下泉橋を含む県道263号線はこんなに短いわけではありません。
路線名に
“春野” の名が付いているとおり、
久保尾地区と越木平地区を結ぶ道路も含めて、263号線なのです。
なぜこんな状態になったのか、調べてみると面白いかもしれませんよ。
ところで、この下泉橋については元々 調査対象ではありませんでした。
が、今回
下長尾在住のS氏が当時の貴重な写真を提供して下さったので、
これは是非とも紹介せねば!という事でこの記事を書き始めたわけですが…。
第2話の机上調査、第3話の現地調査のどちらにおいても、これがまた
実に面白い結果となりました!
果たしてどんなレポートになるやら。
お楽しみに!
さて、明治以前は
橋を架ける事 も
船で渡る事 も許されなかった大井川ですが、どんな事にも
例外はあるもの。
橋について言うなら、はるか上流の井川地区に架かっていたという
井川刎橋がありました。
刎橋とは 江戸時代から存在した
橋脚を必要としない構造の橋で、現存している木造の刎橋はもう無いそうです。
唯一、
山梨県の猿橋という当時の構造を復元した橋がありますが、一部に鋼材を使用しているとのこと。
石造のものは西日本に多数残っているようなので、ぜひ調べてみてください。
次に船について。
江戸時代には
“舟”による渡しが禁止されていたわけですが、唯一
許されていた乗り物がありました。
それは
“桶”。
“タライ舟” と呼ばれるものです。
深さが風呂桶ほどもあり、座った状態で5名くらいの客を乗せたとか。
当然バランスを取るのが難しく、船頭には熟練の技術が必要とされたそうな。
中川根町史によると、
水川〜堀之内間、千頭村〜小長井間など、何か所かでこのタライ舟による渡し(以降、“桶超し”)が
“黙認” されていた、とあります。
“黙認” ということは、正式な認可を受けて渡し業務を行っていたのではなく、あくまで地元住民の生活の利便性を鑑みて、といったところでしょうか。
渡し賃を取っていたのか? 地元民以外の客も乗せたのか? 荷物のみの取り扱いもあったのか? など、気になりますね。
そしてこの
桶超しは、ここ
下長尾〜下泉間にもあったと書かれていました。
FileNo.07の境川隧道編でも触れましたが、ここ下泉と下長尾は、交通の要所。
「川根本町の古道」(平成29年 中川根町史研究会 発行)によると、東は峠を越えて笹間から倉田〜瀬戸谷街道/葉梨街道〜藤枝中心部へ。
又は、笹間から静岡街道を通じて静岡方面へ抜ける道がありました。
西は春野町へ通じて森方面、秋葉詣でにと、人・物を問わず東西を結びつけていたようです。
また、立派とは言い難い状態だったようですが、南北を繋ぐ道も当然ありました。
大井川左岸の下泉地区には地名方面と田野口・堀之内地区を結ぶ現在の県道77号線が、
右岸の下長尾地区には葛籠方面と上長尾地区を結ぶ現国道473・362号線が通っています。
現在の主要道以外の道路は
今では見る影もないようですが、この下泉〜下長尾間の川越えは、当時の人々にとって とても重要な意味を持っていたはずです。
さてさて、そんなこんなで
時代は明治に。
明治3年になって、大井川に
架橋許可・通船許可がおります。
翌年には川船が導入され、流域各地に河川港が造られたそうです。
しかし
架橋となると、そう簡単な話ではありませんでした。
これは大井川に限った話ではなく、当時の大河川に橋を架けるのは 予算的にも技術的にも、
過去に類を見ない程の巨大事業だったからです。
宿場町として栄えた島田・金谷間を結ぶ大井川橋の仮橋が架けられたのは明治9年(1876)、本橋が明治16年(1883)と、完成までにかなりの期間を要した背景は、多くの本に書かれている通りです。
旧中川根町に目を向けると、
明治41年(1908)竣工の“万世橋”(鉄線吊橋)が最初でした。
対岸とを結ぶ橋は地元の人々の悲願だったわけですが、実際に架橋が成されたのは 許可が下りてから実に
38年後。
それこそ並大抵の苦労ではなかったことでしょう。
この後20数年間に渡って この万世橋以外の橋が架けられなかった事が、それを証明しています。
そして、
今回の主役【 下泉橋 】については第2話で!
せっかくなので、下の2枚の写真を先出ししてみます。
どちらも下泉橋を写したものなので、見比べて違いなどを探してみてください。
第2話では、ご提供頂いた当時の写真を たくさんご紹介しますよ!
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追記編:第4話
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*下泉橋の写真は、下長尾在住のS氏からご提供頂きました。ありがとうございます!