東西を結んだ交易路
下泉橋
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第3話
追記編:第4話
再調査編:第5話
第2話 人々は渡るためにこの橋に集まってくるらしい。
というわけで、今回はいよいよ ご提供いただいた
【 下泉橋 】の写真を紹介しつつ、自分なりの検証をしていきたいと思います。
まず、様々な史料をあたって得た情報から年表を作ってみたので、そちらから。
[1] 昭和 7年(1932):初代橋 架設
[2] 昭和17年(1942):老朽化によりトラック転落事故
[3] 昭和19年(1944):初代橋 流失
[4] 昭和24年(1949):2代目橋 開通
[5] 昭和??年(****):2代目橋 大水により大破
[6] 昭和??年(****):2代目橋・改 開通
[7] 昭和36年(1961):3代目橋(現行橋)開通
[8] 昭和54年(1979):側道橋(歩道橋)開通
とまあこんな感じになったわけですが…。
少ない情報を総合して当サイトでまとめた年表なので、正確では無い事を先に書いておきます。
何にせよ、ここからはこの年表の順にまとめていきたいと思います。
[1] 昭和7年(1932):初代橋の架設
まずは
“橋梁史年表”から、
初代下泉橋についてのデータを拾い出してみます。
橋 名 :下泉橋
開通年月日:1932/11/27
橋長(m):272
幅員(m):2.7
形 式 :吊橋 n=2 木造補剛トラス R.C塔
特記事項:昭和初期は吊橋
|
下泉〜下長尾間に初代の橋が架けられたのは、
昭和7年(1932)。
万世橋の完成から24年後の事でした。
FileNo.4で紹介した下流の地名〜石風呂間に架けられた“初代昭和橋”の竣工が
昭和3年であり、それよりも後の竣工となります。
重要な交易点でありながら なかなか架橋に至らなかったのには、理由があります。
その一つが、次の項目にある
“橋長:272m”という点でした。
これは、
中川根地方で最長の川幅だったようです。
先述の
万世橋が橋長222m、
昭和橋が223mだったそうですから、さらに50mも長かった事になります。
そしてもう一つが次の項目
“幅員:2.7m”にも関係する重要なポイント。
設計当初から、
中川根地域では初となる(貨物)自動車の通行を想定していたことです。
FileNo.4で書いたように 初代昭和橋を通行できたのは荷車までで、自動車はおろか馬車の通行もできませんでした。
県下の情勢を鑑みても、自動車通行可能な橋の架設は急務とされていたようです。
しかしこの2つの理由から容易に想像できるように、想定される予算は莫大な金額でした。
中川根町史によると、初代昭和橋の総工費が
9,740円、後の昭和12年(1937)に竣功される初代中徳橋が
6,300円であったのに対し、この初代下泉橋には
46,000円余の建設費が必要だった、とあります。
当然、両村が捻出した資金だけで足りるはずもなく、県の補助金や大井川鐵道からの寄付金も利用して ようやく建設にこぎ着けたようです。
さて、先ほどの諸元データに戻りますが、
形式については写真を見ながら検証してみましょう。
提供写真より
これが初代下泉橋と思われる写真です。
第1話の最後で先出しした写真ですね。
まず、今回 ご提供頂いた写真についてですが、全ての写真が同じ撮影者ではなく 何枚かは知り合いの方に頂いたものもある、との事でした。
で、全ての写真を細かく調べていったわけですが、この写真に写っている橋だけが 他の写真のものとはどう考えても違うのです。
全然関係ない別の橋の写真じゃあないのか?と疑い始めるところまで行きましたが、さらに調査を進めていくと、
「図説 中川根の歴史」(平成14年 中川根町史編さん委員会 発行)にその答えが載っていました。
「図説 中川根の歴史」より
しっかりと“1944年流失”と説明が付いているこの写真。
主塔の形状や構成から見ても、この2枚が同じ初代下泉橋の写真であると考えて間違いないでしょう。
ではもう一度、最初の写真に立ち返って検証してみます。
Click!
提供写真より
写真クリックで気になっている所を拡大しますが、まずは赤枠部分。
ちょっと真ん中の文字がハッキリしませんが、
【下泉橋】と読める…ような。
反対側にはおそらく
竣功年が書かれていると思われますが、残念ながら全く読めません。
そして、この橋名板が取り付けられている
街灯!
なかなか洒落た街灯ですねぇ。
この地域にインフラとしての電気が通ったのは
大正13年頃のはずなので、時期的に考えても おそらく
電灯でしょう。
この時期の公共建築物には、デザイン的な意匠を凝らした造りが多かったのでしょうか。
昭和6年竣功の家山橋(当時の川根町)にも、洒落た街灯があったように思います。
それから青枠で囲った部分は街灯の土台ですが、このデザインについては
また後ほど触れますので覚えておいてください。
Click!
「図説 中川根の歴史」(平成14年 中川根町史編さん委員会 発行)より
次は下長尾側下流方向から見た写真になります。
諸元表に
2径間吊橋(n=2)とありますが、中央橋部分と両岸とを結ぶ部分も
主索で吊っているので、どう見ても
3径間ですよねぇ?
木造のトラス型補剛が入っていて、
主塔は鉄筋コンクリート製(R.C塔)だということが確認できます。
この橋の形式を表すと
“下路式 木鉄混用ステフニングトラス補剛 鉄線吊橋”となるようです。
先述したようにこの橋は
中川根地域では既存の例がない高規格橋だったわけなので、どこか他の川に架かっている橋を参考にしていると思われます。
主索用・耐風索用のアンカレイジ(ワイヤーを固定するためのコンクリートの土台)がはっきりと写っていますが、
橋長272mという数字が正しければ 現行の下泉橋とほぼ同じなので、この当時の川岸の位置は 現在とそう変わっていないようです。
[2] 昭和17年(1942):老朽化によりトラック転落事故
さてさて、ようやく
自動車通行可能な高規格吊橋が開通したわけですが、建設費用こそ様々な方面からの援助を受ける事ができたものの、維持・整備を続けていくのはやはり難題だったようです。
どれだけ努力を尽くしても橋の老朽化は止められず、先述のように昭和17年(1942)に
トラックの転落事故が起きてしまいました。
幸い死者は出なかったようですが、橋の整備は急務でした。
[3] 昭和19年(1944):初代橋 流失
この年の12月には、東海地方に大被害をもたらした
東南海地震が起きています。
しかし史料には“流失”としか書かれていないので、別の災害(台風か大雨?)によるものだと思いますが…。
残念ながらこれに関する写真はありません。
[4] 昭和24年(1949):2代目橋 開通
そして
2代目の下泉橋が開通します。
この2代目と思われる下泉橋の写真がこちら。
Click!
提供写真より
Click!
提供写真より
まず1枚目は、下泉側上流方向からみた写真。
耐風索のアンカレイジの上から撮った写真のようです。
一見してわかるように、
全く違う橋になりました。
上述のように初代橋は“流失”となっており、
「どの程度の被害だったのか」までは書かれていませんが、主塔は
完全に建て替えられたようです。
Click!
提供写真より
両者を見比べてみると、形状もかなり変わっています。
さて、最も大きな違いは 何といっても
中央の巨大な主塔でしょう。
その存在感はなかなかのもの。
横から見た形が
“A”字型になっており、形状的には2代目昭和橋の主塔に似ています。
対して、両岸の主塔は平面的と言うか、横から見た形が
“I”字型であったようです。
ワイヤー(主索)を張る際に半分ずつ施工できる、とかそういった理由なのでしょうか?
そして2枚目は下長尾側下流方向から見た写真。
下泉側の主塔は川の中ではなく、
陸地の上に建てられたのがよくわかります。
これにより、主索用のアンカレイジも岸壁から陸地奥側に引っ込みました。
しかし耐風索用のアンカレイジは 高さの関係もあってか初代下泉橋と同様に岸壁に固定されているようです。
これらの写真から読み取れる範囲での、
2代目下泉橋の概略図を描いてみました。
想像図
初代橋とは、そもそも構成が全然違いますね。
本橋と下泉側とを繋ぐ部分はすでに陸地になっているので、少し特殊な
“3径間吊橋”と考えていいのでしょうか。
こういった構成の吊橋は、とても珍しいように思います。
橋については このサイトを始めるにあたって少し知識を得た程度なので 専門的な事はわかりませんが…。
耐風索のワイヤーが下泉側の岸壁に固定されているとすると、上図のようにバランスが悪いように感じますがどうなんでしょうか?
さてそれでは、次の写真に行きましょう。
Click!
提供写真より
下長尾側の袂で撮られた一枚のようです。
奥の方に中央主塔が写っている事から、2代目橋で間違いないでしょう。
しかし手前の下長尾側主塔の形状を見ると、初代橋に類似している点がいくつか見られます。
こちら側の主塔だけは流失を免れて2代目橋でも利用されている、という可能性もゼロではありませんねぇ。
さて、写真中で最も目を引くのは
二人の茶娘さんですが、ここで注目すべきはその後ろ。
車両の通る轍の幅に、
木材による補強のようなものが成されています。
また、左右のトラス補剛が
ブツ切りのように終わっているのも特徴的。
実はこの状態によく似た写真を、
中川根町史で見つけていました。
Click!
中川根町史より
背景の山の稜線から考えて、
下泉側から撮った写真と分かります。
今まさにトラックが通過しているという貴重な一枚。
左側のトラス補剛に固定されているのは
重量制限の看板ですね。
4tまで通行可能なようですが、材木を満載したトラックでどのくらいの重量だったのでしょうか。
さて下長尾側からの写真に戻りますが、一点だけ
初代橋と共通している物が写っています。
それがこれ。
提供写真より
それぞれの写真で青く囲ったこの物体。
このデザインを覚えておられるでしょうか。
初代橋の、下泉側の袂にあった街灯の土台部分と同じデザインです。
どうやらこの街灯の土台部分は
昭和19年の流失から免れたようなのです。
初代橋の写真をよく見ると、特に何かの固定に使われているようでもなく ただの装飾と考えられるので、負荷が少なかったために残ったのかもしれません。
これがもし本当に初代橋の時の物であるなら、先述の主塔の件も含めて、下長尾側の被害は少なかったと考えられるでしょうか。
Click!
次の1枚は、これまた貴重な写真。
下から見上げた一枚です。
橋の下部は、このような構成なんですねぇ。
下泉側の耐風索アンカレイジの位置もよく分かります。
気になるのは橋脚付近。
橋脚に近い部分では組み方を変えているようですが、中央橋脚部分とか…
なんかちょっと…
変では?。
写真を拡大して見ても、よくわからないのが残念ですよ。
[5] 昭和??年(****):2代目橋 大水により大破
何はともあれ、まずはこの2枚の写真を見て頂きましょう。
提供写真より
提供写真より
こちらが今回ご提供頂いた写真のなかでも、
とびきりのスクープ写真。
大雨と強風に晒されている下泉橋の様子です。
話によると、この翌日、橋は大破したのだとか…。
いずれも下長尾側からの眺めですが、
そこら中がもう限界ですよ。
補剛桁が外れかかっており、今にも流されそう。
アンカレイジ周りも既に水が廻ってきています。
しかし、項目[4]で紹介した写真に写っていた
補強の踏み板がありませんね。
その代わり、
薄い鉄板?のようなものが敷かれているのが確認できます。
残念ながらこの写真に写っている災害についての史料は、全く見つかっていません。
年代が
[??]になっているのも、特定できていないからです。
そのため自分は最初、
昭和19年に起こったと言う“初代橋の流失”というのが、この写真に写っている災害なのだろうと思い込んでいました。
しかしここまでの情報(橋の構成など)から判断するに、
被災しているのはどうやら2代目橋。
となれば、どの本にも載っていないような
下泉橋被災の歴史があったのではないか?というのが今のところの結論なのです。
[6] 昭和??年(****):2代目橋・改 開通
もし下泉橋が上述のような
記録の無い災害に見舞われたとしたら、その後、橋はどうなったのか?
そのヒントだと思われるのが、次の写真です。
Click!
提供写真より
中央主塔付近の河原から、下泉側を写した写真のようです。
提供を受けた当初、
「この写真は(2代目)橋の架設時のものだろう」といった話で聞いていて、自分もそう考えていました。
しかし写真をよく見てみると、
補剛桁の部分がどうも変なのです。(クリックで拡大)
これはどう見ても…
既に壊れている…のでは?
となれば この写真は架設時の様子ではなく、
先の大破後の修繕を写したものではないか?と思うのです。
つまり、2代目橋は
大破後に修理を施し、“2代目下泉橋・改”としてその後も使用されたのではと推測したわけです。
Click!
提供写真より
これは下泉側下流方向から見た写真。
「大井川における最後期の筏流し風景(昭和30年頃撮影)」といった紹介文と共に多くの本に取り上げられている写真ですが、これは少し左側が見切れているようです。
本によっては、この左側にもう1艘の筏と船頭が写っている状態で見ることができます。
この撮影年代の情報が正しければ、おそらくこれは
“2代目下泉橋・改”の方…
なんじゃないかな…。
というのも、入手した全ての写真をひたすら眺めてみたのですが、
“2代目”と“2代目・改”の外見的な違いを見つけることが未だできていないのです。
これまで紹介してきた写真の中にも、
「実は“改”の状態を写した写真だった」「又はその逆だった」なんて可能性も十分にあるわけです。
そもそも被災の記録にも辿り着けていないわけなので、まだまだ情報不足、としか言えません…。
ちなみにこの写真。
昔の風景写真としては ありふれた被写体なのかもしれませんが、ここ大井川においては なかなか重要な一枚なのでは?と思います。
天竜川や安倍川では こうやって筏を組んで
川狩り(木材を川に流して運ぶ方法)をする
“筏流し”が普通でしたが、大井川では
“管流し”と言って1本ずつバラバラに流すのが主流でした。
島田木材協同組合のサイトによると
「明治4年(渡船許可が下りた翌年)に大井川でも筏流しが解禁となった。」とあります。
逆に言うと 江戸時代は舟に加えて筏も禁止されていたという事。
筏をOKにすると渡船禁止の効果は薄れてしまうので、当然と言えば当然ですね。
何にせよ、この写真の頃には物資の輸送は大井川鐵道に大部分を譲り、大井川そのものは発電所の取水によって水量が激減していたはず。
そんな中での
筏流しというのは、まさに
最後期の風景だったのでしょう。
[7] 昭和36年(1961):3代目橋(現行橋)開通
そしてついに、下泉橋は
永久橋 に架け替えられます。
Click!
提供写真より
橋に繋がる連絡道路はまだ施工途中のようですが、開通自体はしているようです。
トラックがすれ違えるだけの幅を持った橋だということが見て取れます。
橋の両側には橋名板が付いているようですが、拡大しても読めませんね。
向かって左側は3文字っぽいような気がしないでもない…ので、【下泉橋】と書かれているのでしょうか。
ここで再び、
“橋梁史年表”から、この3代目橋についての情報を拾ってみます。
橋 名:下泉橋
開通年月日:1961
橋長(m):271.4
幅員(m):6
形 式:PC単純桁橋
特記事項:下流に歩道橋を架設 プレートガーダー
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上の方でも書きましたが この橋長を見る限り、
下泉・下長尾間の距離は初代橋の頃からほとんど変わっていないようです。
幅員は6mとなり、自動車の対向が可能になったのは写真を見ての通りです。
[8] 昭和54年(1979):側道橋(歩道橋)開通
特記事項にもあるように、歩行者が通るための側道橋はかなり遅れての追加架設となりました。
第3話で現在の写真を載せますが、橋脚は共通で、側道橋側にやや延長したような形状になっています。
さてさて当時の写真を用いて下泉橋の歴史を追ってみましたが、なにぶん情報不足のため、ここに書いた記事が正確かと言うと怪しいもんです。
情報をお持ちの方や、当時の記録や資料をご存知の方などいらっしゃいましたら、ご指摘・ご協力をお願いします。
と、一通りの写真紹介を終えたわけですが、もちろんこれで終わりませんよ。
次回は
現地調査編。
下泉橋 行ってみます!
第1話
第2話
第3話
追記編:第4話
再調査編:第5話
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*本文内で“提供写真”としているものは、下長尾在住のS氏からご提供頂きました。ありがとうございます!