東西を結んだ交易路

下泉橋

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追記編:第4話
再調査編:第5話



第4話 は生きている。

前話の現地調査編の後、さらにいくつかの写真が見つかったので 年代順に追加してみたいと思います。
まずは前話までに判明した暫定年表を。

[1] 昭和 7年(1932):初代橋 架設
[2] 昭和17年(1942):老朽化によりトラック転落事故
[3] 昭和19年(1944):初代橋 流失
[4] 昭和24年(1949):2代目橋 開通
[5] 昭和??年(****):2代目橋 大水により大破
[6] 昭和??年(****):2代目橋・改 開通
[7] 昭和36年(1961):3代目橋(現行橋)開通
[8] 昭和54年(1979):側道橋(歩道橋)開通

これを踏まえて、今回も追っていこうと思います。




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「我が社の足跡」より

まずは昭和15年(1940)頃のものと思われる写真。
【我が社の足跡】という大井川鐵道が昭和15年に発行した非売品の冊子で紹介されている写真です。
下泉駅から千頭方向へ進んですぐのトンネル(下泉トンネル)を超えた地点から、大井川下流方向を見た状態のようです。
右端にかすかに写っているのが、年代的に考えて初代橋のようですね。
拡大しても さすがに細部は分からないのですが、当時の橋を横方向から捉えた貴重な写真です

この当時の下泉地区を俯瞰して見た写真がこちら。

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「我が社の足跡」より

FileNo.3追記編第5話でも紹介した写真ですが、ここでは橋に注目です。
これもまた撮影年度が同じため、初代橋ですね。
かなりの規模の吊り橋であったことが見て取れます。



そして昭和19年(1944)、初代橋は流失します。

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国土地理院 航空写真より

昭和21年(1946)撮影の航空写真。

橋がありません。

ここで注目すべきは、橙色矢印。
2代目橋ができるまでの仮橋を、この位置に架けたようです。
その前後では河原に作った仮設道路を通って対岸に渡るという、あくまでも応急処置的な小橋だったのでしょう。

そしてもう一点、黄色矢印。
これ…位置的に考えて、初代橋の下長尾側主塔ではあるまいか?

街灯の台座がそのまま残っていたことから「この時の災害では下長尾側の損害は軽微だったのでは?」
なんてことを第2話で何気なく書いたわけですが、この写真によって下長尾側の主塔のみ耐え抜いた事が確認できました。
影の具合から見て、途中で折れたりせずしっかり建っているように見受けられますが、2代目橋にそのまま流用されたかどうかまではわかりませんね。

またそれと同時に、下泉側主塔に与えられた破壊エネルギーが かなりのものであったことが想像できます。
2代目橋の主塔を川中に建て直すことはせず、少々アンバランスな吊橋構成にしてでも それを地上に設置することで壊れない橋を目指した、という事ではないでしょうか。



そして昭和24(1949)年4月29日、2代目下泉橋の開通となります。

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「大井川の周辺と農村の移り変わり」より

昭和28年(1953)頃の下長尾地区の様子。
残念ながら橋は右で見切れており、詳細こそ分かりませんが とても貴重なショットですね。
しかし何だか、補剛桁がところどころ抜けているような…?

というわけで、次の写真。

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「大井川の周辺と農村の移り変わり」より

昭和30年(1955)頃
背後の山の様子から、下長尾側主塔を下流から撮影した写真のようです。

ここまでの検証で「初代橋の主塔を流用したのでは?」という予想を立ててきましたが…やっぱり形状が違いますかね…?
初代橋の主塔はもっと曲線的なフォルムを有していたはずですが、対してこちらはとても直線的です。
両脚を繋いでいる梁部分は似てるんですけどねぇ。
歩行板より下の土台部分はかなり堅牢そうに見えるので、ここだけを流用した可能性はありそうです。



そして、2代目橋も大水により大破の運命をたどります。

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提供写真より

その大水による洪水の様子を、下長尾側の下流方向から写した貴重な写真。
中央の建物は自動車の整備工場であったようです。
建物の中に車が見えますが、大丈夫なんでしょうか?

右端に見切れているのが耐風索アンカレイジ。
隣の建物と比較すると、かなりの大きさである事がわかります。
手前側で水没している平地には、およそ20年後の昭和51年(1976)に下長尾小学校・久野脇小学校・久保尾小学校が合併して中川根南部小学校が誕生する事になります。
この中川根南部小学校(現:川根本町立中川根南部小学校)は児童の減少により、残念ながら令和4年度で閉校となるのが決定しました。
創立時には既に3代目の永久橋に架け代わっていたはずですが、この耐風索アンカレイジはその時代まで残っており 当時の子供たちの格好の遊び場であったそうです。

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提供写真より

これは橋の上流側の耐風索アンカレイジと、川の様子を見つめる人々。
アンカレイジの大きさと、増水した大井川の威力がよくわかる写真です。



そしてその大災害の後。
「2代目橋の大破後に大規模な修繕を受けて、2代目橋・改として生まれ変わったのではないか?」という予想を立てたわけですが…。

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「大井川の周辺と農村の移り変わり」より

その予想を肯定する写真が見つかりました!
これはもう何と表現したら良いのか…。
主索やその他のワイヤー類は生き残っているようですが、踏板や補剛桁などの木製部分がかなり破損しているのがわかります。
そして注釈には昭和34年(1959)という年代と共に、ハッキリと『吊橋の修復』と書かれているではないですか!

やはり2代目下泉橋は大破の後、修復されていたという事がハッキリしました。

これにより、暫定年表がほんの少しだけですが更新できます。

[1] 昭和 7年(1932) :初代橋 架設
[2] 昭和17年(1942) :老朽化によりトラック転落事故
[3] 昭和19年(1944) :初代橋 流失
[4] 昭和24年(1949) :2代目橋 開通
[5] 昭和34年(1959)頃:2代目橋 大水により大破
[6] 昭和34年(1959)頃:2代目橋・改 開通
[7] 昭和36年(1961) :3代目橋(現行橋)開通
[8] 昭和54年(1979) :側道橋(歩道橋)開通



しかしせっかく修復した2代目下泉橋・改も、そう長くは保たなかったということなのでしょうか。
2年後の昭和36年(1961)には3代目の永久橋に架け替えられます。
その理由についてはまだ不明のまま。

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提供写真より

下長尾側の高い場所から撮影した一枚。
手前が下長尾地区で対岸が下泉地区です。
側道橋(歩道橋)がまだ無い頃ですね。

クリック後の黄色丸地点にあるのが耐風策アンカレイジ跡。
第3話の現地調査編で実際に確認した通り、現在では下泉側上流部(左奥の地点)のみ残存しています。

右下に見える大きな建物がかつての下長尾小学校。
上述のように昭和51年には久野脇・久保尾の3校が合併して、南部小学校として別の場所に生まれ変わります。

下泉地区に目をやると、下泉駅と大井川鐵道の鉄橋が見えますね。
この鉄橋とほぼ並行して架かっているはずの八千代橋(県道77号線の橋)が、ちょっと離れた位置にあるのが分かります。
写真に写っているのは旧八千代橋であり、現在の八千代橋になるには昭和46年(1971)まで待たなくてはなりません。

写真中には“下泉グラウンド”と書き込んでみたものの、正式名称は“町営総合グラウンド”と呼ぶようです。
こちらは昭和59年6月3日のオープンとなります。

下泉橋
提供写真より

次話では、現地の再調査編をお届けしますよ。






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*本文内で“提供写真”としているものは、下長尾在住のS氏からご提供頂きました。ありがとうございます!