村を繋いだ長大吊橋

中徳橋

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第4話 位置どこにするか。まず、それから考え始める。


さてさて、上長尾側の橋台跡は目立つ形で残っていました。
では田野口側はどうなのか?
ザッと見渡してみたところで特に何も無いし、そんな話も聞いたことがない…。

まあそれでも何とか足掻いてみよう、ってのが今話なわけです。
少しでも真相に迫る事ができればよいのですが。


何にせよ、田野口側の橋台の位置が分からなければ始まりません。

まずは真上から見た位置を特定してみましょうか。

初代中徳橋
国土地理院 航空写真より

こちらが、第1話でも登場した昭和23(1948)年5月の初代橋。

2代目中徳橋
国土地理院 航空写真より

そしてこれが、昭和37(1962)年7月の2代目橋です。
まずは縮尺と角度を合わせる必要があります。
利用したのは川根街道大井川鐡道
この2本の路線がピッタリくるように補正して、初代と2代目を重ねてみると

合成中徳橋
国土地理院 航空写真より

こんな感じに。
どうやら ほぼ平行に架かっていたようです。
とすれば、上長尾側の現道〜橋台跡までの距離さえ分かれば、それをそのまま田野口側に当てはめることで おおよその位置を掴めるでしょう。

と言うわけで、現地で測定した結果がこちら。

中徳橋位置関係

素人のメジャーによる測定なので、あくまで目安の数値とお考え下さい。
現橋と初代橋の中心間隔は、およそ20mと思われます。
田野口側で言うと

中徳橋 Click!
GoogleMap 衛星写真より

だいたい この辺り。
現・中徳橋から上流(千頭方向)へ向かって1本目の架線柱までがおよそ10mで、その倍くらい離れたところに初代中徳橋が架かっていたのではないか、と推察します。

そしてそれと同時に、橋台、主塔、主索(メインケーブル)のアンカレイジなど、田野口側には何も残っていないことが決定的になってしまいました。

中徳橋位置関係

なぜなら該当する場所の背後には現在、石垣とコンクリート吹き付けの法面が広がっているから。

うーーむ…。


まあそれでも、田野口側の橋台がどのあたりにあったのか できる限り追及してみたい。

とはいえ 最有力情報である当時の航空写真は解像度が低すぎて、吊橋・橋台・接続道の位置関係がイマイチはっきりしないのが…。

初代中徳橋 Click!
国土地理院 航空写真より

そこで注目したのが、吊橋の袂から田野口集落へ向かう徒歩道(写真クリック後の紫線)。
該当地の山肌はかなり急峻であるため、徒歩道は吊橋を出てすぐの所で ほぼ直角に繋がっていたはず。
これは、同じ大井川型の塩郷の吊橋(久野脇橋)をイメージすると分かり易いと思います。
となれば、山中にうっすらと刻まれている徒歩道の流れを辿って吊橋の延長線と交わる所、ここが主塔を出てすぐの位置に当たるのではないか?
つまりは 少し白っぽく見えている場所こそが主塔の位置(写真中の黄線)ではないだろうか?

と、おおまかな予想を立ててはみたものの…。
やはり情報不足は否めません。
他にも当時の写真がないものか…。

初代中徳橋

梅野屋 所蔵(上長尾)
大きいサイズはこちらから。

ありました。

こちらは上長尾にて絶賛営業中の梅野屋(うめのや)さんに飾られている、初代中徳橋を収めた貴重な写真!
田野口側で撮られた2枚の写真を、パノラマ風に繋いでいるようです。

さてさて、この写真を検証してみましょう。

初代中徳橋 Click!

まず手摺り鉄線を固定する2本の石柱(水色線)が見えているので、地上で撮られた写真である事が分かります。
石柱の立っている場所は橋台のフチ(赤線)に近いはずですが、この写真には主塔が写っていません。
主塔は、橋台よりも いくぶん山側に位置しているようです。

そして下の段には大井川鐡道の線路が見えていますね。
これは何と言うか、あくまで感覚的な話になってしまいますが…。
線路との距離感が、現在の道路上からの眺めとそう変わらないように見えませんか?。
と言うか、むしろ現道からよりも近いような…。

これらを先ほどの地図に乗せてみると…

初代中徳橋 Click!
国土地理院 航空写真より

こんなイメージでしょうかね…?

いやはや どうにも大雑把な検証になってしまいましたが、初代中徳橋の田野口側橋台は 現在の自動車道(町道上長尾田野口停車場線)とほぼ重なるような位置にあったのではないか?と言うのが現段階の予想です。



それでは次に、高さ方向の位置関係について考えてみます。

まずは田野口側から。

初代中徳橋 Click!
提供写真より

第1話で紹介した写真を、一部拡大しました。
写っているE10型電気機関車の全高(車輪下からパンタグラフを畳んだ状態)は約3.5m
この機関車を縦に重ねてみると(クリック後の写真)2台分で初代橋の高さと同じくらいに。
どうやら、大井川鐵道の路盤と初代橋では 約7mの高低差があったようです。

注:一応 誤解の無いように書いておくと、第1話でまとめたように 初代中徳橋の架橋は大井川鐵道の全線電化より12年以上も前。
最初から“架線を越える高さ”で設計していた、とは考えにくい。
「いつかは電化するから、その分 高くしといて。」と言われていたわけでもないだろうしね。

んで、現在の中徳橋はどうなっているのか?と言うと、架線が橋の底面から吊るされている事から推察するに、道路面から大鉄路盤間は約7mといったところでしょうか。
この予想が正しければ、初代橋とほぼ同じ高さになるわけですが…果たして?



さてさて お次は上長尾側。

とても分かり易い情報の一つとして、「現橋よりも初代橋の方が位置が高い」という事が挙げられます。
第3話でも書きましたが、初代橋の橋台があった堤の高さは約6m位でした。(レーザー測距器(激安品)による測定値)

ここで、吊橋の入口と出口の高さは ほぼ同じ、と仮定します。
…って、残念ながら 何の根拠もないんですけどね。
近年では片上がりの観光用吊橋もいくつかありますが(接阻峡近くの八橋小道(やっぱしこみち)ラブ・ロマンス・ロードなど)、昭和初期に架けられた吊橋は ほぼ同じにしてあると思うんですよねー。
この件についての研究結果など、あるんでしょうかね?

で、田野口側の高さは 大井川鐵道の車両が通過できる高さ+安全マージンによって自動的に決まってしまうので、そこに合わせるように上長尾側を高くした、という仮説を採用したい。
これらを基にして簡単な図を描いてみると、こんな感じに。

初代中徳橋模式図 Click!

それでは、今の中徳橋はどうだろうか?

田野口側の検証で、現橋の高さと初代橋の高さがほぼ同じだっただろうと予想したため、現橋は上長尾側から田野口側へ向けて登り勾配であるはず。
そこで、スマホの傾きを検知するアプリをインストールして 現橋の中央あたりで使用してみたところ…
『2度』
傾いているようです。
実際に歩いてみると、「水平ではないな」という程度の体感はありました。
橋長を234.3mとして2度傾斜があった場合は、約8mの高低差がつく計算になります。

これを先ほどの図に重ねるとこんな感じ。

中徳橋模式図 Click!

いい加減な図ではありますが、ご容赦ください。
あくまでも こんなイメージかな、という感じです。

こうなると、やはり「田野口側の遺構が残っている可能性は ほぼ無い」、と考えるしかないようです。
残念。



ところで、調査中に気付いたのは写真中の一本のライン。

作業路? Click!

なんと、こんな所に歩道があるじゃあありませんか。

作業路? Click!

じっくり見ないと気づきませんよこれは。

でまあ、最初こそ「よもや初代橋に繋がっていた徒歩道では?!」なんて色めき立ったものですが…。
まあ さすがにそれは無い。
少なくとも大井川鐵道の架線よりも高い位置にあったはずだしね。

作業路? Click!

上から覗き込んだ写真。
鉄骨(H鋼)を縦に地面に突き刺した間に枕木を何本も入れて落石防止とし、その壁と法面の隙間を歩道としています。
おそらく保線作業用の通路でしょうね。

作業路? Click!

ほぼ同じ高さで推移していくこの歩道は、コンクリートの法面が途切れるあたりで忽然と消えてしまいます。
今回の趣旨とは外れる可能性が濃厚なので、これ以上は追いません。

作業路? Click!

一応、橋の上流側には単管パイプで組まれた簡易な階段があり、歩道や線路際まで行けたりします。



さて、如何だったでしょうか?
結局のところ、今回の調査では 田野口側の遺構を見つける事はできませんでした。
現在の自動車道(町道上長尾田野口停車場線)を整備する際に 全て飲み込まれてしまった、と考えるしかないようです。

どうやら当時のままの姿で残っているのは、大井川鐵道の路盤を支えるコンクリート擁壁くらいのものでしょうかね…。
そんなわけで・・・

・・・。

・・・・・・。

・・・コンクリート擁壁・・・。

当時の・・・?!

・・・。


その可能性を忘れてた・・・!


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