村を繋いだ長大吊橋

中徳橋

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第1話 よし おまえののぞみをかなえてやろう


川根本町上長尾田野口を結ぶ橋。

中徳橋
GoogleMap ストリートビューより

【 中徳橋(ちゅうとくばし) 】

こちらが、今回ご紹介する物件です。
橋長は234.3m、幅員4.5m
場所はここ。

中徳橋 Click!
国土地理院地図より

この橋がどのような経歴を持っているのか、【中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌】(中川根町制三十周年記念誌編集委員会・平成4年)の年表から拾い出してみました。

[1] 昭和12(1937)年 3月   :初代橋(鉄線吊橋)架設
[2] 昭和36(1961)年11月10日:2代目橋(永久橋)竣功
[3] 昭和50(1975)年10月31日:2代目橋拡幅工事完成

橋が架けられる以前、この地域の交通事情はどんな感じだったのか?
上長尾・田野口周辺に焦点を当てて、まとめてみました。



古くから上長尾地区は『川根街道(川根西街道)』上に位置し、ここから尾呂久保・久保尾などを経て春野町・秋葉山など西部方面へ向かう重要な地区。
対して田野口地区は『川根往還』と呼ばれる街道上にあり、壱町河内・下泉などを経て笹間・藤枝方面と繋がる東の玄関口とも言える集落。
どちらの地区も、たいへん賑わっていたそうです。

これらの街道を通して東西から集まった人や物資が向かった先は、『正島の渡し』
この中徳橋がある地点より約2km上流には、東岸に正島、西岸に水川という地区があります。
両地区の間には“渡し船”の一種である『桶渡し』(舟ではなく桶に乗って川を越える)という渡河交通手段がありました。
その歴史はとても古く、少なくとも西暦1500年(安土桃山時代)以前から、存在していたとか。
とても興味深いのは、架橋・渡船禁止(慶長6(1601)年、時の将軍 徳川家康による伝馬制度から)であった江戸時代においても それが行われていた点です。
ある程度 幕府の監視下に置かれていたようですが、大井川全域を見ても 唯一ここだけが公的に認められた『渡し』地点であり、東西の結節点だった事になります。

補足:但し、寛延3(1750)年(江戸時代。幕府将軍は徳川家重)頃から慶応3(1867)年(将軍は徳川慶喜)頃の間の記録はなく、詳細は不明のようです。
渡しについても、千頭・藤川間地名・石風呂間の桶渡しや 渇水期の渡渉(徒歩で渡る事)など、他地区でも ある程度は黙認されていたのではないか?と書いている書籍もあります。
また、川根の渡島地区などでは「秋葉参りの人のみOK」とするパターンもあったようです。
井川地区においては大井川沿いに下る事は困難な立地であり、全く別のエリアと判断された事から 例外的に刎橋(はねばし)が架かっていました。




そして時代は明治へ。
明治3(1870)年10月に架橋・通船が許可されると舟運業者が続々と大井川での商売を始め、通船業は瞬く間に川根の主力交通機関となります。
大井川全域に渡って人々の交流・物流が盛んになり、東西に延びていた商圏が次第に南北方向にシフトしていく一つの要因ともなりました。
この近辺にも川湊が多く作られ、正島の渡しは明治24年、桶渡しから舟渡しに代わります。
しかし舟運には問題点が多く、流域を南北に繋ぐ街道の整備を求める声もまた 次第に大きくなっていきます。

補足:舟運の問題点として、主に以下のような内容が挙げられます。
・運行状況が天候や水量に左右される。
・運賃が超高額。
・移動の時間がかかる。
・川狩り(木材の流送)との共存ができておらず、争いが絶えなかった。




大正時代後期になると、大井川鐡道敷設についての資金集めが本格化します。
これは「金谷町を起点にして大井川西岸を通るルートである」との触れ込みで株の購入者を募集するものでした。
西岸に位置する中川根村においては、安定した交通手段である鉄道が村内を通る計画など、まさに一大好機。
これに乗らない手は無く、村長の鈴木豊太郎らが中心となって株式購入等に大いに協力します。
対して東岸の徳山村では、一部の有力者が株式を購入するに留まり、一般の人々はさほど積極的ではなかったのは仕方のない事でしょう。

補足:もちろん中川根村の全村民が協力的だったわけではありません。
蒸気機関車の上げる“噴煙”を嫌う者や、鉄道がもたらす恩恵に縁が無い者、生活の苦しい者など様々でした。
「全戸に対して」という事でもないようですが、【大井川鉄道の成立―ある電源開発鉄道の建設過程―】(青木栄一・栗原清・1990)という論文では「所有財産に応じて半強制的な出資割り当てが行われていたようだ」と推定しています。
また、中川根村の株式購入者が多かったとはいえ そのほとんどが9株以下の零細株主で、とても資金不足解消の一助を担ったとは言い切れないようです。




昭和5(1930)年4月29日には、川根電力索道延長線 地名〜青部間が開通します。

川根電力索道
中川根町史 近現代通史より(図中の「上長尾」「田野口」は筆者の追記)

これは志太郡瀬戸谷村滝沢(現:藤枝市滝沢)を起点として、徳山村地名(現:川根本町地名)を中継し はるか上流の上川根村沢間(現:川根本町沢間)までを繋ぐ貨物専用の輸送路のこと。
一時は舟運に貨物輸送を奪われた格好となった藤枝の商人達が、再び川根地方の特産品を流通させるための経路として建設したものです。

川根電力索道 田野口駅付近
国土地理院地図より(図中の駅名、路線は【幻の索道 -川根電力索道 16年の激動の歴史-】を参考に追記。)

路線途中に位置する田野口にも索道駅ができたため、ここから上長尾地区に向けて貨物輸送のための索道が作られます。
上長尾側の索道駅は、現在の水川トンネル入り口付近(オオホツと呼ばれる地点)だったようです。
しかしこれは川根電力索道の支線などではなく、あくまで個人所有の貨物輸送路でした。

補足:ここで言う『索道』とは、荷物を吊るして運搬するゴンドラ式運輸方法。
ロープウェーやスキー場のリフトを想像してもらうと分かり易いかと思います。
川根電力索道は 名前にもあるように「発電」をメインに据えた起業で、索道による貨物輸送は あくまで副業でした。
川根地方からは木材や茶が、それと交換するかのように生活用品・魚・舶来品などが川根の空を運ばれていったそうです。
詳しく知りたい方は、【幻の索道 -川根電力索道 16年の激動の歴史-】(沢間 駿河・令和4年)という本をご覧ください。
必見です。




昭和6(1931)年4月12日、大井川鐵道は青部(仮)駅まで開通。
資金集めの時点では大井川西岸を通るはずだった路線は、実際の工事段階になってみれば東岸を素通り。
この当初の計画とは違ってしまった事の補償として、大井川鐡道は大井川を渡る吊橋の架設について資金援助する事になります。
このあたりの経緯についてはFileNo.S001 駿府鉄道株式会社の記事で書いているので、そちらをご覧ください。

しかし線路の敷設の為の資金繰りにすら逼迫している同社が、即日 架橋に必要な資金を準備できるわけもなく…。
この時点では「資金援助の約束をした」に留まったものと思います。



同年12月1日、ついに大井川鐵道が全線開通します。

大井川鉄道業績評価
我が社の足跡より

最初の数年こそ伸び悩んでいた業績も、その後は鰻登り。
表を見ると、昭和10(1935)年に総収入が一気に上がっていますね。
この頃に何があったのか まだ資料を精査していないため断言はできませんが、おそらくダム建設資材の輸送によるものかと。
全国的な不況の只中にありながら この後も木材の輸送が順調な伸びを見せ、昭和18(1943)年まで右肩上がりを続けていきます。

さて、開通後は沿線各地の橋梁架設に資金が提供されていきます。(昭和7(1932)年竣功の川根大橋、下泉橋、久野脇橋など)
名目上は 上記の理由等による“補償の履行”となるわけですが、実際には「自社輸送品の集荷効率を上げるための経営上の戦略」という面も強かったと思います。
駅周辺の道路整備に力を入れたのもその一環で、一企業としては当然の事とも言えるでしょう。

そして昭和12(1937)年3月、当時の榛原郡中川根村上長尾志太郡徳山村田野口を結ぶ鉄線吊橋が架けられました。

初代中徳橋
中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌より

これが初代の中徳橋を東側(田野口側)から撮った写真。
橋長は230mもあり、地元の方の話によると「渡るのがとても怖かった」そうな。

構造を見てみると、主索に吊られた大横板と平行にそろばん板が並び、その下を敷鉄線が何本も渡っています。
大横板とそろばん板の上に敷板があり、通行人はこの上を通るわけです。
敷板は薄板1枚しかなく心許ないですが、うっかり足を踏み外しても敷鉄線に引っかかるので即落下!とはならない(はず)。
吊橋の左右に張られた耐風索は振動を抑制する役目を担っています。
実に基本的な大井川型の吊橋ですね。
大横板には手摺り支柱が立ち、そこに手摺り(ワイヤー1本)が固定されているわけですが…。

いや怖いでしょ これ…。

どうにもこうにも、頼りなさすぎ…。
こんな調子で230mも歩くのは、どんな気分だったのでしょうか。


さてさて こうして開通した大井川鐡道ですが、その建設資材が川根電力索道によって運ばれていた事は皮肉としか言いようがありません。
当初は輸送スピードアップ低運賃を売りに舟運から荷物を奪った同索道ですが、大井川鐵道に対しては さらなる輸送スピードアップ国鉄東海道線への接続の良さという点で大きく劣り、貨物の取扱量は次第に鉄道輸送へと移っていく事になります。
その他の様々な要因が重なって川根地方における地位を失った 川根電力索道延長線 地名〜沢間間は、昭和13(1938)年に廃止。
昭和16(1941)年には全区間が廃止となります。
また、田野口・上長尾間を結んでいた貨物索道も吊橋にその役目をとって代わられ、同時期に廃止となりました。



昭和24(1949)年4月、中徳橋より上流の中川根村水川〜徳山村野志本(?)間に淙徳橋(吊橋)が架設されます。
これにより正島の渡しは役目を終え、後に短期間の復活などもあったようですが、その歴史に幕を下ろします。

そして同年12月に、大井川鐡道が電化。

初代中徳橋
提供写真より

これは昭和30年頃のPR映像からの切り取りだと思われる写真ですが、初代中徳橋の下を電気機関車が長大な貨物列車を曳いて通過していくシーンです。(上長尾側から田野口側を見ている状態)
機関車の形式としては『いぶき型』だと思いますが詳細は不明。
*注:読者様から『E10型』では?とのご指摘を頂きました。
*確かに、年代から考えたらその通りです!
*ありがとうございました!*
無蓋貨車に積まれているのは木材、有蓋貨車の中身は川根地方の特産品でしょうか。
路盤を支えるコンクリートの壁や写真左端の岩塊などは、現在でも見られます。

この写真では、“手摺りワイヤー”の様子が良く写っています。
一番手前の柱は おそらく橋台上に設置されている石柱で、柱に開いた穴にワイヤーを通しています。
吊橋上の手摺り支柱では、その頭頂部にワイヤーを固定しているようです。

また、田野口側(写真奥側)には巨大な主塔が見えます。
一番上が見切れているので断言できないのですが、おそらく『A』型主塔でしょう。
とても華奢に見える事や年代的に考えて、木柱ではなくコンクリート製のはずです。



昭和31(1956)年9月30日になると、中川根村は徳山村を編入合併し新たな一歩を踏み出します。
両地区の交流は必然的に増え、また学校の統廃合なども急速に進んだことから、安全に渡れる永久橋への架け替えを望む声は日増しに増えていきました。
その声に応えるべく昭和36(1961)年11月10日中徳橋はコンクリート製の永久橋として架け替えられたのです。

この時の写真が、【結びつなぐ、大井川の吊橋】(山本洋子/海野泰一・令和5年)という本の中にあります。
(他にも貴重な写真やお話が大量に載っているため、ぜひぜひ購入してご覧になって下さい!)
そんなわけで、ここでは忠実に(感覚には個人差があります)再現したイラストでお茶を濁させて頂きます。

初代中徳橋

田野口側の河原から初代の吊橋を見上げる様に撮られた写真の左奥には、建設途中の2代目中徳橋の橋脚が見えています。
これにより、「初代橋の落橋や流失による架け替え」が理由ではない事が確認できました。

初代の吊橋をよく観察すると、所々でワイヤーが垂れ下がっているように見えます。
中には割れている横板もあるようで、なにやら満身創痍と言った風情。
また同書の他の写真でもハッキリと見て取れますが、一定の間隔を空けて すれ違いの為の待避場所(待避敷板?)が設けてあるようです。
現在でも渡ることができる久野脇橋(塩郷の吊り橋)では やはり一定間隔を空けて4ヶ所の待避場所がありますが、敷板の両側に設置されています。
対して中徳橋は、短いピッチで 左右交互になるように敷板が置かれているのです。
おそらく橋全体のバランスを取るためだとは思いますが、巨大な荷物を背負った持ち子同志がここですれ違う場面を想像すると…。



ここで橋梁史年表を見てみると、この2代目橋の幅員(実際に通行可能な橋の幅)は3.2m
永久橋になったとは言え、小型車でさえすれ違いにも苦労するものでした。

これを解消すべく、昭和50(1975)年には中徳橋を拡幅するよう動きがあります。
橋梁管理データベースによると、当時の中川根町役場からの発注で上部工(橋脚より上の構造部)のみの整備事業が記録されており、橋脚をそのままに上部工のみ拡幅したようです。
この時の拡幅工事により幅員は4.5mに増え、センターラインこそ無いものの大型車でもすれ違いのできる、現在の橋になったのです。



さてさて、各代の中徳橋はどのような位置関係であったのか?
まず上述のように2代目中徳橋2代目中徳橋・改と呼ぶべき現行橋は、同位置になります。
では初代の吊橋はどこに架かっていたのか?
上で紹介した【結びつなぐ、大井川の吊橋】(山本洋子/海野泰一・令和5年)に掲載されている写真から、現行橋のやや上流側に架かっていた事は分かっています。
これについて、いつものように航空写真から追ってみましょう。

中徳橋 Click!
国土地理院 航空写真より

まずは昭和23(1948)年5月の写真
架かっているのは初代の吊橋
川根街道(現在の国道362号線)に対して、直角に近い角度で接続しているのが 現道との大きな違いです。
田野口側では既に大井川鐵道が開通しており、こちらもまた直角に交差しているのが見えます。

中徳橋 Click!
国土地理院 航空写真より

続いて昭和37(1962)年7月のもの。
2代目中徳橋に代わった翌年ですね。
現在の国道362号線に対して、斜めに接続しているのがハッキリ分かります。
初代吊橋は既に撤去されているようですが、上長尾側(写真左側)の初代橋への接続道は、まだなんとなくその形を残しています。
対して、田野口側には初代橋の痕跡らしきものは全く無く、代わりに田野口地区(写真右上)へ向かう自動車道が目立ちます。

中徳橋 Click!
国土地理院 航空写真より

もう少し写真が鮮明になっている、昭和42(1967)年8月版
写っているのは2代目橋であり、初代吊橋が無い事、上長尾側の接続道がうっすら見える事、田野口側に何の痕跡も見られない事は変わっていません。
大きな変化と言えば、橋の田野口側の袂から下泉方面(写真下方向)へ向かって自動車道が作られている事でしょうか。

ところで、この2代目橋
すれ違いが厳しい程の狭い橋であったことは上でも触れました。
しかしよく見ると、橋の中央付近が少し膨らんでいるような?
これは他の年代の写真でも 同じように見えるのですが…気のせいか?
もしやこれは、車同士が交換するための待避所のようなものでしょうか?
もしご存知の方がおられたら情報を頂きたい所です。

中徳橋 Click!
国土地理院 航空写真より

さてさて、進んで昭和51(1976)年11月の写真。
写っているのは現行の橋(2代目・改)ですね。
写真がカラーになってより鮮明に写っている事もありますが、たしかに幅員が広がっているようです。
初代橋の上長尾側の袂を見ると、巨大な橋台らしきものが見て取れます。
これについては後ほど明らかになりますのでね。


といった感じで 中徳橋の歴史を簡単に追った所で、次回は現地調査編!




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出典・参考資料
中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌(中川根町制三十周年記念誌編集委員会・平成4年)
「水川。正島の渡し」の歴史 川根地方の通船(鈴木 貢・平成10年)
大井川鉄道 三十年の歩み(大井川鉄道株式会社・昭和30年)
幻の索道 -川根電力索道 16年の激動の歴史-(沢間 駿河・令和4年)
結びつなぐ、大井川の吊橋(山本洋子/海野泰一・令和5年)
川根本町の古道(中川根 町史研究会・平成29年)
中川根町史 近現代通史編(中川根町史編さん委員会・平成18年)
静岡県鉄道軌道史(森 信勝・平成24年)