川岸に眠る不達の神殿
笹間渡発電所
TOP
第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
第1話 ゆくえ知れずになった通勤路のことは禁句だった。
平成30(2018)年1月17日放送の
『世界の何だコレ!?ミステリー』(フジテレビ)で取り上げられた事が契機となり、一躍有名になった川根地方のとある場所。
それが、今回の物件です。

Click!
【 笹間渡発電所跡 】
怖すぎる外観。
「何の建物かわからない」不気味さ。
それら全てが この遺構の魅力となっているわけですが…。
人々の最大の関心事は やはりこれでしょう。
どうやって行くのかが分からない。
上の写真は対岸の
国道473号線からの眺めですが、周囲を見渡しても道らしきものがないのです。
とは言え建物の周辺には茶畑が広がっており、その畑の主は現地に通う方法を知っているはず。
(現在では放棄されてしまいましたが、数年前までは耕作されていました。)

Click!
GoogleMapより
とまあ そんな物件でありますから、
SNS全盛のこのご時世、一旗揚げてやろうとばかりに多くの人がこの遺構を目指しました。
この記事を書くにあたって自分も多くのレポートを読んだわけですが、ほとんどの人が
「大井川を渡っての到達」が一般的であると(不本意ながら)結論付けているのが現状のようです。
また数名の方々は
隠された真の道について言及されており、完踏に至ったレポートも1件だけ目にしました。
んで。
正直なところ 既にTV番組でも取り上げられるほど知られた物件だし、内部の写真も多数発表されているわけで…。
当サイト的には この物件は
メジャー判定。
一応、調査リストに入れてはいたものの、優先度は低いままでした。
しかし周囲の茶畑が耕作放棄地となり、建物全体が緑に飲み込まれつつある現在。
今後、さらに状態が悪化することはあっても 良くなることはない…。
これはやはり記録に残すべきか。
そんな思いからスタートするのが 今回のレポートなのです。
笹間渡発電所(笹間渡水力発電所)概要
東海パルプ100年史 より
笹間渡発電所(笹間渡水力発電所)の始まりは、明治時代に大倉財閥の創立者である
大倉喜八郎が大井川の水資源に着目したことにあります。
大倉は
明治39(1906)年に水力発電事業を起工し、翌
明治40(1907)年には
東海紙料株式会社(現在の特種東海製紙株式会社→公式HP) を創立しました。
同社は
明治43(1910)年の島田工場完成に伴い 自社電力を確保するため
地名発電所を稼働させます。
その後、
大正15(1926)年6月22日に資本金200万円を倍額の400万円に増資することで事業拡大を進めましたが、この計画には 新たな電力源として
笹間渡発電所を建設することも含まれていました。
東海パルプ100年史 より
笹間渡発電所は
昭和3(1928)年2月1日に着工され、
昭和6(1931)年2月2日に営業運転を開始しました。
発電形式は
流込み式(水路式)を採用しており、塩郷で取り入れた大井川流水を地名を経て隧道で導いて発電する構造で、水路の総延長は
3,220メートルに及びました。
この当時 大井川鐵道は前年の6月に横岡まで開通していたため、工事資材・機械類は横岡湊までは鉄路、以降は大型の高瀬舟での運搬となったようです。
(参考:FileNo.S01 駿府鉄道株式会社)
その後、大井川鐵道が家山・笹間渡と順次開設されると、それに伴って舟輸送の距離は短縮、鉄路輸送に
振り替えられていきました。
建設工事は
大倉土木 (
大正6(1917)年に大倉財閥の合名会社大倉組から分離、現:大成建設株式会社
(公式HP)) が請け負い、水車・発電機などの手配は
大倉商事(同時期に商事部門を分離した)が行いました。
諸々の工事も順調に進み、当初予算をややオーバーしたものの
昭和6(1931)年2月2日に営業運転開始、
同年2月9日付で正式使用が許可されました。
先に書いたように笹間渡発電所の建設目的は東海紙料の事業拡大の為でしたが、発電所完成時の日本経済・パルプ市況は
最悪の状態。
ようやく稼働にこぎつけた新鋭の発電機も、フル稼働することはなかったようです。
同年6月9日からは
川根電力索道(志太郡瀬戸谷村瀧澤から同郡徳山村地名までの索道)への売電を開始
(東海パルプ100年史 より)しましたが、必要とされる電力量が少なすぎたために 売り上げは微々たるものだったようです。
これについて
【幻の索道 -川根電力索道 16年の激動の歴史-】(沢間 駿河・2022)という書籍の方でも確認したところ、
「電気については最終的に東海製紙が所有する地名発電所から供給を受けることとなった。」(第2章 川根電力索道の成立/第1期線開業 より)という一文を見つけました。
しかし地名発電所は 笹間渡発電所の完成に伴って、設備・建物をそのままに休止状態となっており(再開は
昭和27(1952)年)、これに関する発電自体は笹間渡発電所が担っていたものと考えられます。
苦難の日々が続くなか、
昭和11(1936)年1月16日、
東京電燈の電力不足を補うため 同社の小山〜金谷線に電力供給を開始することで、回復への一歩を踏み出します。
その後も運営母体が
昭和18(1943)年に
東海事業、
昭和26(1951)年に
東海パルプと社名を変える中、同社の基幹エネルギー施設として稼働を続けました。
昭和26(1951)年5月1日、電気事業再編成令により
中部電力株式会社が発足。
第2次世界大戦後の電力不足の影響で 大井川流域の電源開発は急ピッチに進められ、中部電力の
川口発電所と
塩郷ダムが計画されます。
国土地理院地図 より
これは
塩郷ダムで取水した用水を 笹間川に建設された
笹間川ダム湖へ送水し、ダム湖で一旦貯水した後 再度トンネルで
川口発電所へ送水し発電に利用するというもの。
しかし両施設に挟まれる立地となる
地名・笹間渡発電所は この計画によって運転出来なくなる事が見込まれました。
東海パルプと中部電力は協議を重ね、静岡県知事の仲介により 次のような基本協定が締結されます。
「中部電力株式会社は、川口地点に東海パルプ株式会社専用(別施設、別建物)の最大出力6,000キロワットの発電所を、地名・笹間渡両発電所の代替として建設の上、無償で譲渡し、東海パルプ株式会社は地名・笹間渡両発電所を廃止し、施設一切を中部電力株式会社に譲渡する」(東海パルプ100年史・2007)
しかし中部電力が
昭和22(1957)年7月に完成させた
赤松発電所(島田市相賀)は、4,900kWの発電能力しかありませんでした。
両社はさらに交渉を継続し、最終的には以下の内容で妥結をみました。
1.交換の時期は川口発電所の運転開始時とする。
2.赤松発電所出力を6,000キロワットとするため、中部電力は水利使用計画変更許可申請手続きをする。
3.使用水量は最大毎秒33.8トン、常時27.78トンとする。
4.発電所導水路、放水路は東海パルプの永久無償使用とし、維持管理修繕費は東海パルプ負担とするが、これら固定資産は中部電力の所有とする。
5.東海パルプの既得水利権は放棄する。
(東海パルプ100年史・2007)
こうして
昭和36(1961)年3月31日、
赤松発電所は東海パルプの所有となり 出力6,000kWで運転を開始。
同日、
地名・笹間渡発電所は廃止となりました。
その翌々日の
4月2日には地名発電所にて閉所式が行われたそうです。
赤松発電所
なお、東海パルプ側へ引き継がれた
赤松発電所は
平成27(2015)年に設備更新が行われ、現在は
特種東海製紙グループの
新東海製紙株式会社の資産として、電力販売事業等に活用されています。
廃止後のコンクリート造の発電所建屋は、長年にわたり周辺の茶畑の所有者によって管理・利用されてきたようです。
当時は対岸の山中から
索道(ロープウェイ)を用いて農器具や茶葉を運搬し、作業者は徒歩で大井川を渡河していたという情報をWEB上で目にすることができます。
平成30(2018)年になってメディアで取り上げられたことで、
「渡河しなければ接近できない立地」にある遺構として一気に注目を集めました。
しかし近年は周辺の耕作放棄に伴って定期的な管理は途絶えており、
令和8(2026)年現在では建物全体に蔦が繁茂するなど、急速に周囲の草木に覆われる状態となっています。
だいぶ端折りましたが、これが大まかな笹間渡発電所の経歴となります。
次回は 現役当時の様子、及び発電所に至る道について 資料から迫ってみましょう!
第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第7話
TOP
出典・参考資料
東海パルプ100年史(2007)
特種東海製紙株式会社 公式ホームページ「沿革」
水力ドットコム「東海紙料 笹間渡発電所 跡」
大井川の流域開発と大倉喜八郎(日本電気協会 中部支部・2010)
水力発電所データベース(電力土木技術協会)
幻の索道 -川根電力索道 16年の激動の歴史-(沢間 駿河・2022)
他、各WEBサイト様