大井川鐵道 横岡駅を知る

横岡駅

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第1話 第2話
追記編
第3話 第4話 第5話 第6話 第7話

第6話 開業時から、バック走っている。


前話までのまとめ。

・大井川鐵道開業当時の金谷〜下泉間においては、新金谷駅にのみ転車台が存在した可能性がある。
・順次開業していく中で、どの駅にも機回し(進行方向を変える際に機関車を先頭に付け替える作業)ができる複線(又は機回し線、留置線)があった。

という事が判明しています。
今話では、下泉〜千頭開通時までのお話をしていきたいと思います。



昭和6年(1931)4月10日には駿河徳山駅まで開通を果たしますが、すぐには営業運転は開始されませんでした。
と言うのも、その2日後に次の青部(仮)駅までの開通が成され、そちらを終点として同月12日からの営業開始としたようなのです。
駿河徳山駅では、「12日に開通を祝う記念式典が行われた」という記録があります。

大井川鐵道旧駿河徳山駅
我が社の足跡 より

駅の構成について触れておくと、現在の島式ホーム+2線という形に加えて、かつては3本目の線と貨物積み込み用の短いホームがあったことが【 写真アルバム 島田・牧之原・榛原の昭和 】( 佐々木高史・2017 )の94頁で見られます。

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国土地理院 航空写真 より

現在の駅舎側の赤枠で囲った場所には製材所があり、そこから木材等を積み込んでいたようです。
前話で取り上げた下泉駅に似ていますね。



そして昭和6年(1931)4月12日に営業開始した青部(仮)駅。
実は当時の写真を見つけることができていません…。
転車台こそなかったはずですが、機回しはできたのか?

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Google Map 衛星写真 より

現在の青部駅を訪れた人は“ホームから不自然に離れた駅舎”“妙に低くて短いホーム跡”に気づくと思います。
駅舎との位置関係などを見ても、かつて2面2線あったものが規模縮小により単線になった、というパターンが当てはまりそうです。
短いホーム跡を当時の貨物用ホームと考えるならば、下泉駅や駿河徳山駅のように島式ホーム+貨物用ホーム+3線だった可能性もあります。
が、今のところ情報不足であり、真相は明らかではありません。

ところで、ずっと気になっていたことがあります。
昭和15年(1940)に発行された【 我が社の足跡 】(大井川鐵道株式会社)という非売品の本の中で、青部駅という名称は全て 部假驛(青部仮駅)とされていたのです。
本川根町史にも、同様の表現が見られます。
(しかし昭和30年(1955)発行の大井川鐵道30年の歩みという冊子では、この表現はありません。)

これがどういう意味なのかを調べてみましたが、どうにもその点についての情報が得られませんで…。
これはおそらく、大井川鐵道という会社の内部のお話ではないか?と。
その場合はお手上げだな…と諦めかけていたわけですが、ようやくこれに関係しそうな記述を見つける事が出来ました。

それは、前話で保留としていた例のアレ。
終着点を東川根村藤川 から上川根村千頭に変更する件についての記述です。

5万分の1 千頭
5万分の1 千頭 より

なぜあの時期(昭和5年(1930)8月23日)に終点を変更する必要があったのか?
このあたりの顛末については、【本川根町史 通史編3・資料編4】に詳しく載っていました。

要約すると、

1.変更すると橋が一本増えるが、藤川までの難工事区間を回避できる方がメリットが大きい。
2.主目的である林産物は、みな千頭に集まる。
3.千頭側の方が平地が広く、事業用地を確保しやすい。
(本川根町史 通史編3より)


というのが主な理由のようです。
あくまでも会社の経営における効率や採算性を考慮しての決定だったわけですが、この時の藤川地区の人々の落胆はかなりのものでした。
終着駅が建設されるという計画であったからこそ出資やその他の協力もしたのに、と思うのは当然でしょう。
これを受けて、当時 藤川地区が属していた東川根村の村長は 会社社長の中村氏に宛てて懇願書を提出しています。
その内容は、住民の失望感や落胆ぶりをもって抗議すると同時に 見返りとして下記の点について要望するものでした。

川根大橋を自動車通行可能な橋に架け替えてほしい。
柳瀬〜崎平間の橋(柳崎橋)も同様。
田代地区に駅を造ってほしい。
青部の停車場を開通後に造ってほしい。

この懇願書が提出されたのは昭和5年(1930)9月12日と、終点変更から3週間ほど後のこと。
大井川鐵道で言えば塩郷駅開業を数日後に控え、塩郷〜青部間は工事の真っ最中ですね。
このように懇願書がやや強気な内容である事から、本川根町史では『この一連の件については 約束を反故にしたという点で大井川鐵道側にやや非があったようだ』と推定しています。

ではこの要望の内容について、簡単に見てみましょう。

・『川根大橋』とは東川根村 小長井(現:川根本町東藤川)と上川根村 千頭(現:川根本町千頭)に架かる橋。
当時の川根大橋(初代橋)は架橋から既に20年が経過していました。
しかも東西を結ぶ要所でありながら この橋を通過できたのはせいぜい荷車まで。
自動車の通行が可能な高規格の新橋への架け替えは、喫緊の課題でした。
しかし折からの恐慌により資金調達もままならず、計画は足踏み状態のまま。
これをなんとか実現させたいという当時の状況が、この要望に繋がったようです。

・『柳瀬〜崎平間の橋(柳崎橋)』は東川根村 柳瀬(現:川根本町東藤川)と上川根村 崎平(現:川根本町崎平)を結ぶ橋で、明治42年(1909)に初代の吊橋が架橋されています。
しかし大井川鐵道の柳瀬〜田代間の隧道(田代トンネル)の難工事のために多くの作業員や物資が往来する事、地域の住民も利用している事を踏まえ、もっと高規格な橋に架け替えてもらいたい、という内容です。
この要望の顛末については現時点では調査不足ですが、いずれ取り上げたいと思っています。

・『田代に駅を〜』とは、当時の田代地区には多くの住人がいた事から ぜひ駅を造ってほしい、という内容。
ただ千頭駅との距離が近いという事もあり、上記2点に比べると若干弱いニュアンスで書かれているように感じます。
結果的に、ここに駅が作られることはありませんでした。

・そして問題の『青部の停車場〜』という項目。
実際の懇願書の文章を引用すると、
「青部ニ停車場ハ開通ノ後ニ於テ何ニトカ御考慮置被下趣キナレトモ是又御建設方願上候」(本川根町史 資料編4より)
とあるわけですが…理系人間である自分にはさっぱりですよ…。
これは「開通した後でいいから、青部に停車場を作ってもらえないか?」
という意味と捉えて良いのでしょうか?
もしそうであるなら、もともと青部駅は“全線開通時までの一時的な駅”あるいは“貨物専用の駅”とする予定だったのではないでしょうか?
そう考えると、他の駅とは少し違った歴史を持つこの駅が、また面白く見えてきますね。

と、こんな感じで青部駅の歴史について追っていたところ、官報(国の公的な広報誌。明治16年から発行されている。)に この件について掲載されているという情報を入手しました。

一つは昭和6年(1931)4月24日『官報』第1293号644頁「地方鉄道運輸開始」の項目。
4月12日より下泉〜青部(仮)駅の一般運輸営業開始の届け出があった旨が書かれているわけですが、注目すべきはその備考欄。
「駿河徳山、青部(仮駅)間は当分貨物(貸切扱)運輸営業のみ」と書かれています。

そしてもう一つは昭和6年(1931)12月9日の『官報』第1484号263〜264頁「地方鉄道運輸開始」の項目。
12月1日より青部(仮)駅〜千頭の運輸営業開始の届け出があったという内容であり、ここの備考欄には
「青部(仮)駅は青部駅開設と同時に廃止」と書かれているじゃあないですか。
つまり青部駅は、『昭和6年(1931)4月12日の青部(仮)駅開通時点では貨物専用駅だったが、12月1日の全線開通時からは青部駅として新たな駅を建設し旅客の取り扱いも始めた』という解釈で良いようですね。

そして、さらに面白いのはその位置について。
青部(仮)駅が駿河徳山駅から1.9kmの地点で登録されているのに対し、新たに旅客扱いを始めた青部駅2.0kmと、100mほど千頭寄りに建設されたようなのです。
現在の青部駅も駿河徳山駅から2.0kmとされているはずなので、新青部駅との位置関係は変わっていないはずですが…。
ここでもう一度、上で提示した衛星写真を思い出してみましょう。

青部駅
Google Map 衛星写真 より

現在の駅・駅舎より、やや金谷側にあるものは何か?

そう、あの背の低いプラットホームなわけですよ。

これはつまり…。

あのホームこそが初代の青部(仮)駅跡なのだっ!

…。

…と結論できたら、どれだけドラマチックな事でしょうか。
あ、いや、まるで的外れというわけでもないのですが。
まず残念ながら、この低プラットホームまでは40〜50m程しか離れていないのです。
地図読みのため正確ではありませんが、青部駅から金谷方面へ100mとなると、写真の茶畑のあたりになりますかね…。

ここからは自分の予想になりますが、あれはおそらく青部(仮)駅時代から使用されてきたホームの“一部”ではないでしょうか?
当時はもっと金谷側に向かって長く伸びていたのが、お役御免となった時に半分ほど削られたのでは?と。
冷静に読み返してみれば、新青部駅が旅客扱いを始めたからと言って貨物扱いを辞めたわけではなく、需要のある間は両方の積み下ろしがあったはず。
『青部(仮)駅は書類上・登録上は“廃止”としておいて、建屋やホーム・敷地などは取り壊さず 実質的には“新駅に統合/吸収”に近い形だったのではないか?』と思うわけです。

とまあ好き勝手に書いてみましたが、真実が分かる日は来るんでしょうかね?



さてさて盛大に脱線してしまいましたが、話を戻して。
昭和6年(1931)12月1日ついに金谷〜千頭間が営業を開始します。
同日、千頭駅では全通記念祝賀式が盛大に執り行われました。

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千頭駅に到着した文字通りの一番列車でしょうか?
詳細な部分までは見えず、機関車の特定も難しい…。
客車6輌を牽引してきたようですね。

見ての通り、現在の井川線がある場所(写真手前側)にはまだ何もありません。
既に更地になっているのを見るに用地の取得は完了している状態、という事でしょうか。

Click!
ふるさと本川根 目で見るふるさと百年史 より

こちらは、同じ日の千頭駅をやや違う角度から捉えた写真のようです。

奥に見える架設中の橋は、昭和7年に開通する2代目川根大橋。
同書籍に収められた別角度からの写真の注釈には、
「大井川鉄道が千頭まで全線開通したのが昭和6年。これに前後して、第2代川根大橋の新設が、旧橋の脇に平行に進められている」(ふるさと本川根 目で見るふるさと百年史 より)と書かれています。
もう一度写真をよく見ると、鉄筋コンクリート製の白い主塔があるそのすぐ右側(下流側)には、少し低くて黒い別の主塔があります。
これが明治44年(1911)竣工の初代川根大橋。
前話の久野脇橋の際にも参考にした論文【我が国における明治期の近代的木造吊橋の展開(その6) ―大井川水系における人道釣橘の変遷―】(山根 巌)によると、
「橋長197.5m、全幅員3.6m(但し通路幅は1.5m)で、堅固な木製高欄のついた鉄線吊橋であった」とのこと。
これは歩行者用の吊橋でした。
写真では既に1本の橋が架かっているように見えますが、これは初代のもの。
2代目橋はその奥(上流側)に並行して架設工事中であり、重なって見えているだけなのです。

この2代目吊橋、自動車(主にオート三輪)も通れる規模ではあったようですが、橋面は板張り。
昭和23年(1948)6月5日の小長井大火で消失する運命にあります。
その後、主塔をそのまま再利用する形で3代目橋が架設されるわけですが、そこから先は、また別の機会があれば…。

さて、この川根大橋の架け替え事業は 青部駅の項目で触れた、地元の人々の要望が叶った故のものなのでしょうか?
【本川根町史 通史編3】にはこのように書かれていました。
「この陳情をうけ、会社側は東川根村に交通整備の工事資金として二五〇〇円の寄付を承諾している。このことは、東川根村に対し、工事への協力に感謝というより、陳謝の意味があったと理解してよいであろう。」
資金難により何の進展も見出せなかった川根大橋架け替え事業ですが、この寄付金が呼び水となって ようやく工事に漕ぎつけられた、という事のようですね。

Click!
我が社の足跡 より

上の写真は昭和15年(1940)頃の千頭駅を、金谷方面から写したもの
線路がまっすぐ伸びた先にある建物が、旧千頭駅駅舎かと思われます。
左手に入っていく引き込み線を進むと井川線や貯木場に続いていくわけですが、開業当時は存在していません。
そしてクリック後が現在の千頭駅。
出来る限り同じような構図を選んでみましたが標識が…。
本線に限っては、線形はほとんど変わっていない…ですかね…?
さすがに建物や道路は様変わりしていますが。

さてさて、肝心の転車台についてですが…。
開業当初、千頭駅には転車台は無かったというのが今のところの結論です。

片っ端から昔の千頭駅の写真を見まくったわけですが、転車台の写真を見つける事はできませんでした。
この千頭駅は山間地にあり周辺の高い地点から撮られた俯瞰写真もそれなりに残っているのですが、それらしき物は見当たらず。
まあそれがそのまま転車台が無かった事の証明にはならないのですが…。

と、そんな折に見つかったのが『千頭停車場平面図』という青図。
これは、主に鉄道関係の情報を扱っていらっしゃるにしみやうしろ仮駅というWEBサイト様にて紹介されていたもので、 こちらのページにて見ることができます。
記事によればこの青図は、国立公文書館にて保存されている資料とのこと。
残念ながら現地に行く機会もないので、 デジタルアーカイブからそれらしい資料を探してコピーを取り寄せてみたりしているのですが、なかなかこの青図に巡り合えていません。
とりあえずこの図面をじっくり眺めてみたものの、日付等の文字情報はどうにも読み取れず。
駅から千頭側線(通称:リバーサイド線)が出ている事や、赤字で描かれた路線(現在の井川線の前身)の線形、そして当該サイトの説明文「鉄道省文書 鉄道免許・大井川鉄道6・昭和11〜12年」という部分から考えても、昭和11年頃の構内図で間違いないでしょう。
でまあとにかくご覧の通り、転車台は描かれていないわけです。
なんとかこのあたりの資料を入手して、裏を取りたいところですね。



さて、ダラダラと長い事書いてきましたが、現時点での結論。

開業当初は、千頭発金谷行のSLはバック運転であった。

…とはいえ、まだまだ謎は残っています。
第4話で保留していた新金谷駅の転車台は、いつ頃の設置なのか?
千頭駅には本当に転車台はなかったのか?

まだもうちょっとだけ、お付き合いください。



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