大井川鐵道 横岡駅を知る
横岡駅
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第4話 転車台に乗るのはひさしぶりだった
第3話で時刻表を追いかけていて、気になった事があります。
それは
列車の向きについて。
2022年現在では新金谷駅と千頭駅の両方に転車台があるため、SLは常に前を向いて走ることができています。
しかし昭和51年(1976)に大井川鐵道がSLの営業用動態保存運行を始めて以来、2011年に新金谷駅の転車台が新規に建造されるまで、千頭発金谷行きのSLは
逆機運転(バック運転)で列車を牽引するのが通常でした。
では、
開業当時はどうだったんでしょうか?
時系列に沿って、
開業時から
千頭開通時までの期間について少し考察してみたいと思います。
と言っても、素人が当時の資料を探してみたところで大した情報を得られるはずもなく。
やや自分勝手な想像を書き連ねるだけの頁になってしまうのをお許しいただきたい。
まず開業当初
(昭和2年〜)は蒸気機関車による列車運行のみだったことは
第3話でも書きました。
在籍していたのはオレンタイン・エンド・コッペル製の
“5”と
“6”と呼ばれた機関車で、この機関車が1〜2両の客車(+貨物車)を牽引する、というのが標準編成であったようです。
これを念頭に置いて
金谷〜新金谷間の運行について考えてみます。
とりあえず、立地的に見ても金谷駅に転車台があったとは考えづらい…。
ただ、機回しのための複線があったようです。
その様子は
第2話冒頭の
【 超貴重!昭和30年代初頭の大井川鉄道PR映像 】という動画の0:55あたりで見ることができます。
また現在でも、複線分の空き地があるのは見て分かります。
これはホーム途中にある橋梁を下から見上げた写真。
しっかり2本分のIビーム桁が残っていますね。
*** 追記 ***
M.TADA氏が制作されているブログ
【汽車・電車1971〜】にて、昭和54年(1979)撮影とされる金谷駅の写真がありました。
サイト内の
【私鉄を訪ねて】から
【大井川鉄道1979・8】という頁を辿った中にあります。
汽車・電車1971〜 より
元・西武鉄道で活躍した千頭行電車が出発を待っているところですが、右側に機回し線が写っています。
写真で言うところの奥側(金谷駅改札側)にはポイントがあり、末端で1本の線に収束していました。
そのポイントを利用して、機回しが可能だったようですね。
*** 追記終わり ***
なんにせよ、上りか下りのどちらかの走行において
バック運転をせざるを得なかったことになります。
では次に、新金谷駅はどんな様子だったのか。
現在の転車台は2011年に島田市の補助を受けて新規に建造されたものですが、実はこれより前、
昭和45年(1970)9月28日に撤去されたという旧転車台があったそうです。
しかし詳しい情報が見つからずどうしたもんかと悩んでいたところ、
katsu氏の運営する
[地方私鉄1960年代の回想]というブログに、その転車台の写真が載っているのを見つけました。
地方私鉄1960年代の回想 より
(これは氏からお借りした写真を小さく表示しています。大きいサイズの写真は、リンク先の
katsu氏のブログ『地方私鉄1960年代の回想』にてご確認ください。必見です!!)
撮影年は
昭和41年(1966)9月とのこと。
写真を見て頂くと分かるように、電気機関車を回せるくらいの大きさがありそうです。
架線も通ってはいますが、直進方向のみ。
そもそも殆どの電気機関車は両側に運転台があり、よほど特殊な事情がないかぎり転車台での方向転換は不要なのです。
これはおそらく、左奥に見える機関庫に用があるのでしょう。
地方私鉄1960年代の回想 より
写真に写っている範囲では4本の接続線がありますが、両端の2本は
“とりあえず設置してあるだけ”で、どうやら車輪などの軽量物を置いておくための線路のようです。
レールもちょっと宙に浮いてるし。
地方私鉄1960年代の回想 より
右から2本目の車庫には電車が留置されていますが、どう見ても
廃車寸前。
そもそも どうやってここに押し込んだのか…。
パッと見た感じでは
【クハ500形】のどれかでは?と思いますが、詳細は不明です。
この写真から形式などが分かる方はいらっしゃますか?
地方私鉄1960年代の回想 より
右から3本目の線はゆるやかに左へカーブしながら、奥の車庫に入っていくようです。
乗っているのは
三菱電機製 電気機関車 E10形。
昭和24年(1949)12月1日の全線電化に併せて新造され、今なお現役の
E101です。
よく見ると写真奥側のパンタグラフ(屋根上にある集電装置)がありませんね。
整備中なんでしょうか?
地方私鉄1960年代の回想 より
黄色線で区切られた1〜3枚目は車輛通過中に転車台が動かないようにするための位置決め部品ですが、手動でロックしていたのでしょうか。
4枚目は中央支承部分。ここが中心ですね。
では、この転車台は
どこに設置されていたのか。
他の写真も含めて検証し、撮影者の
katsu氏にも確認を取ったところ、設置されていた位置はこのあたりと判明。
Click!
国土地理院航空写真より
昭和37年(1962)頃の撮影とされる航空写真です。
撤去される約8年前ですね。
ここは現在も整備詰所がある場所です。
さて どうにかして
転車台の大きさを知りたい所ですが、写真から割り出すしか 今のところ手がありません。
目安になりそうなのは
“まくらぎ”(レールの下に敷かれた横木)でしょうか。
この間隔が分かれば、転車台の全長(鈑桁長?)が計算できるはず。
情報によれば
“まくらぎ”の仕様が初めて制定されたのは
明治33年(1900)で、その後
昭和9年(1934)4月に改訂が成されたようです。
鉄道線路の保守や管理という
「保線」に着目してまとめられた
『保線ウィキ』によると、
“まくらぎ”の間隔は
「 定尺レール25mあたりに何本使用するか 」( 保線ウィキ より)で決められているとの事。
同ページ内に
「普通鉄道の施設に関する技術上の細目を定める告知 第4条の2」としてその表が載っていますが、その下の項目には
「 橋まくらぎの場合は、線路等級のほかに橋桁の中心間隔によりまくらぎに発生する曲げ応力が異なるので、別途定められたまくらぎ間隔で敷設される。 」( 保線ウィキ より)ともあります。
となれば、
転車台には転車台の規格があるのでしょうか…?
まあそもそも この転車台の製造が開業直後かそれ以降かによって適用した規格が違う可能性がある上に、地方私鉄である大井川鐵道の ましてや転車台の規格がどうなっているのかって…。
とにかく これ以上の資料を見つける事ができていないので、とりあえず間隔を
700mmとしてみましょう。
転車台中心から端までの
“まくらぎ”本数が
12本(部分的に間隔が詰まったり開いたりしてはいますが…)ある事から、計算すると
全長は約17m位ではないかと推測されます。
右奥に留置されている電車は確実にこの転車台で転回されているはずですが、17m級の車体ならば回す事ができたのではないでしょうか?
とまあ、あくまでもお遊び程度の推察になりました…。
で、
最も重要なのは 設置年 なわけですが。
現時点で確定しているのは、
昭和41年(1966)9月以前(写真撮影日以前)〜昭和45年(1970)9月(撤去日)まで存在した、という事です。
とりあえずこれを仮の設置期間としておいて、次回第5話の最後に設置年についてさらに追及してみたいと思います。
昭和2年(1927)6月10日。
いよいよ横岡駅までの営業運転が開始されます。
今のところ、新金谷と千頭以外の駅に転車台が設置されていたという話は聞いたことがありません…。
とりあえず
第1話で載せた横岡駅跡地の航空写真を見る限り、駅構内には複線を敷けるくらいの広さはあったように見受けられます。
国土地理院航空写真 より
機関車の向きを変えることはできなくても、入れ替えはできたはずですね。
いずれにしても、
往路・復路のどちらか(おそらく復路・横岡発金谷行き)はバック運転だっただろうと予想します。
次に旅客営業を開始したのは、
昭和4年(1929)12月1日の金谷〜家山間。
まずはその道中、五和〜福用間の列車の様子が
第2話の追記箇所で紹介した、
【清水文庫】昭和6年7月の川下り旅行の動画に収められていました。
清水文庫 より
これは動画における復路、川下り中に
下り列車を見上げるような格好で撮影されたものです。
場所は神尾よりやや南あたり。
機関車の形式まではさすがに判別できませんが、千頭向きで
【有蓋貨車+客車+無蓋貨車+機関車】という構成のように見えます。
不鮮明なのがとても残念ですが、動画に残っているだけでも超貴重なのは間違いありません。
我が社の足跡 より
話を家山駅に進めますが、やはり転車台があったという話は聞きません。
広さ的には余裕があるんですけどねぇ。
この家山駅には、わりと後年まで給水塔や給炭設備があった、ような情報をどこかで読んだ気がしますが…。
*** 追記 ***
提供写真より
物語:駿府鉄道株式会社でも紹介した
昔の家山駅の様子。
少なくとも
昭和6年以降の写真のようです。
ご覧の通り、少なくとも見える範囲には転車台はありません。
それどころか、給炭設備も給水塔も見当たらないわけですが…?
どうやら全線開通して間もない頃の貴重な写真のようです。
*** 追記終わり ***
さて、次に開通したのは
昭和5年(1930)7月16日の金谷〜地名間。
またもや
【清水文庫】昭和6年7月の川下り旅行の映像中に、貴重なシーンを見つけました。
清水文庫 より
昭和6年の大井川第一橋梁を車中から見た一枚です。
既に橋を渡り終え、左端には築堤が見えています。
清水文庫 より
清水文庫 より
この2枚は動画中の復路、川下り中の舟上から見た状態。
鉄道用橋梁としては一般的な、
単線上路デッキガーダー橋(単純桁橋)であることが分かります。
橋脚はコンクリート製のようですが、細部までは分かりません。
さて、話は進みまして これまた地名駅にも転車台などなかったはず。
ただし現在でも島式ホームで複線となっているように、入れ替え作業はできた可能性が高いです。
ここでも
【清水文庫】昭和6年7月の川下り旅行の映像中から、一行が地名駅で下車するシーンを抜き出してみます。
清水文庫 より
下車直後の映像のため、右側に
客車が見えますね。
15号機関車に牽引されたこの客車は、扉の位置などからおそらく
『ハフ30形』かと思いますが、詳細は不明。
清水文庫 より
続いてホーム下。
パンで撮られたシーンのため、強引に繋げて一枚の写真風にしてみました。
画像中央には
ポイント(分岐器)が見えますが、
ホーム〜駅舎間を繋ぐ渡り板の位置が…今と違う?
Click!
GoogleMap 衛星写真 より
これは現在の地名駅周辺の様子。
クリック後の黄色線が本線、赤枠が駅舎、オレンジが渡り板です。
見ての通り 現在のポイントの終端部は県道77号線と交わる踏切部分の近くまで来ており、駅舎からはかなり離れています。
現在も残っているあの
ノスタルジックな駅舎が当時からの建物であるかどうかは確証が得られていませんが、仮に駅舎が変わっていないとすれば
開業当初の地名駅構内は、現在よりも遥かに小規模なものであったと予想できます。
この頃の列車の編成(全長等)は画像からも想像できるように全てが小型だったため、現在のように長く広い必要はなかったわけですね。
全線電化後からSL保存運転を始める過程のどこかで、長編成の列車にも対応できるように何度か線形を変えたのではないかと思います。
*** 追記 ***
おそらく
昭和50年頃に撮られたであろう地名駅の写真を発見しました。
それがこちら!
・・・はい。
え〜っとこれは、
1979年に発行された
【 大井川鉄道 車両のすべて 】( 大井川鉄道・1979 )という、いわば公式ガイドブックのような本に掲載されていた一枚、を、
忠実に(感覚には個人差があります)再現したイラストです。
見ての通り、
かつての地名駅も3線でした!
しかも写真一番左側(現在の駐車場あたり)には
背の低いホームがあり、下泉や駿河徳山と同規模の駅(次の
第5話、
第6話にて紹介します)だったようですね。
右上段の山の中腹にある直線は、現在の県道77号線(川根寸又峡線)に当たる自動車道。
また、写真中央奥の線路上には
『日本一短いトンネル』として有名な、
川根電力索道用保安隧道が見えますね。
*** 追記終わり ***
さてさて、この年の
10月9日から大井川鐵道に
ガソリンカーが導入されます。
ガソリンカーとはガソリンエンジンを動力として走行する鉄道車両で、
レール上を走る自動車と考えてもらえれば分かり易いでしょうか。
これはSLのように機関車が列車を牽引する方式ではなく、運転台と客車が一体となったバスのような形。
我が社の足跡 より
我が社の足跡 より
この写真に写っているのが、当時の
ガソリンカーのようです。
Wikipediaの情報と照らし合わせると、これは
『キハ50型』という形式のはず。
昭和5年(1930)雨宮製作所製の51・52、昭和6年(1931)日本車輌製造製の54・55(55は53を改番)の計4両が在籍しており、
昭和31年に廃車になったとの事。
初期型のガソリンカーというのは
逆転機を装備しておらず、片側にのみ運転台が付いていて一方向の走行に特化した、いわゆる
“単端式気動車”と呼ばれるタイプが主流だったらしいです。
この
単端式をピストン運行させるためには
両終着駅に転車台を設置して向きを変えるか、あるいは
背中合わせに2両を連結して両方向に対応させる必要があったわけです。
なかなか運用が難しそうに感じますが、まだまだ蒸気機関車全盛のこの時代において、たとえ地方の私鉄であっても
主要駅に転車台が設置されているのは普通の事だったのでしょう。
しかしこの大井川鐵道に導入されたガソリンカーのうち、
51、52を製作した
“雨宮製作所”についての記述を見ると、
「(メーカーとしては)後発であったものの、当初より両運転台式での車両設計を行うなど先進的な構想を持っていたことが知られ、純粋な単端式気動車の製作例はごく少数に留まる。」(Wikipediaより)
とされており、納入されたのは
両側に運転台がある(どちらにも進める)タイプだったのだろうと予想されます。
また、
“日本車両製造”による
54・55形も、類似型車両の系譜を辿ると どうやら
両運転台方式であった可能性が高いです。
そもそもどの車両も
大井川鐵道の自社発注とのことなので、最初から両方向の走行ができるタイプを注文していたのでしょう。
もしそうであれば、“SLでバック運転&折り返しの度に機関車入れ替え作業”をしていた頃よりも負担がかなり減ったはずです。
金谷〜新金谷間や五和分岐点〜横岡駅間の運行、さらには本線全体の運行もスムーズに行えるようになったのではないでしょうか。
次話以降では塩郷駅から千頭駅開通時までのお話と、転車台についての追及をしていきますよ。
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