大井川鐵道 横岡駅を知る

横岡駅

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第3話 鉄道の「時刻表」にも愛読者がいる


*** 10月追記 ***

6月の追記分で、昭和4年(1929)の金谷〜家山間開通以降の運行において、

―【五和】― 【横岡】 ― 【福用】―  と  ―【五和】― 【福用】―

という便が同時期にあったのではないか?というような事を書きましたが、それを証明する資料は目にしていませんでした。

そんな時、千頭駅に併設されている【SL資料館】に古い時刻表が展示されているという情報を見つけたので、さっそく行ってみました。

大井川鐵道 千頭駅 SL資料館

するとそこには、確かにありました、時刻表!
それも昭和2年、4年、5年、6年、8年版という豪華な顔ぶれ!
これで何かが掴めるかも、とニヤニヤしながら近づいてみた…わけですが…。

まあそう物事がうまく運ぶわけもなく。
どれも全てガラスケースの向こう側にあり、
このうち昭和2年版の時刻表は印刷がかすれて判読困難。まあこれは仕方ないか…。
昭和4年版は “これは昭和4年の時刻表です” と書かれた説明プレートの下敷きになって半分程が見えず。おーい…。
昭和5年版は良好な状態だったもののケース奥の方にあって見辛い…。
昭和6年版が一番綺麗で見やすい位置に展示されてるのに、千頭駅発の時刻だけしか記されてないタイプ!
昭和8年版に至っては…これ裏側じゃないですか…。

せっかく来たのに、収穫が少なすぎる。
どうにも諦めきれず他に何かないかと展示品をガッツリ見て回ったところ、すぐ横の壁にも同じ時刻表が展示されてることに気づきまして。

ああ一安心。

とまあそんなわけで、ボロボロの展示品を自分なりに解読して【大井川鐵道時刻表・復刻版】を作成してみました!
と言っても、作ったのは昭和2年版と4年版だけですけど。



とりあえず、時系列を追って昭和2年版から。

大井川鐵道 昭和二年版 時刻表

こちらが昭和2年6月版の時刻表(復刻版)になります。
つまりは大井川鐵道が開業した際に作られた最初の時刻表という事です。

大井川鐵道開通記念チラシ
中川根町史 近現代通史編より

第一話で紹介したこちらのチラシに載っているのと同じ時刻表のはず。
チラシの文字はぼやけて判読不能でしたが、今回入手した情報で色々と検証ができそうです。
まあ今回の趣旨を考えれば、本来は不要な作業なのですけど。

この時刻表を追ってみると、終点である金谷駅・横岡駅に到着した列車がそのまま折り返しの便になるのは当然として、中間駅において上下線の交換は行われなかったようです。
極端な話、1編成あれば全便を賄えた事になります。
実際には補給や整備の為に新金谷駅で機関車の付け替えなどをした可能性もありますが、何とも言えません。
新金谷駅の時刻欄に発・着の両方が書かれていれば、色々判断できたかもしれないのですが…。
あるいは、金谷駅に到着した列車が回送扱いで一旦 新金谷へ。
補給(石炭・水・砂など)を行った後にまた金谷駅へ戻り、横岡行きの便として出発
した可能性もあります。
その場合は、昼の便(金谷着12:05→金谷発1:00)がこれに該当しそうですね。
他の便が 到着から出発まで10分〜30分の設定なのに対し、この便だけは1時間となっているからです。

ではこの頃は、どのような列車が走っていたんでしょうか?
まず、開業当初(昭和2年〜)は蒸気機関車による列車運行のみでした。
詳しくは、【 静岡県鐵道軌道史 】(2012、森 信勝)にエピソードが載っています。
「中村円一郎社長は横岡開業前の昭和2年、三重県のオレンタイン・エンド・コッペルを2両(4万9000円)、緩急車10トン積み(2730円)、4輪客車48人乗り4両(1両5160円)、無蓋貨車10トン積み(2080円)をそれぞれ購入している。名機関車コッペルはマッチ箱のように角ばった客車2両を牽引して、大井川沿いを黒煙を吐いて力強く走った。」

オレンタイン・エンド・コッペル(Orenstein & Koppel OHG)とは、プロイセン王国(現在のドイツ)にあったメーカー。
Wikipediaの情報によると、この2両は“5”“6”と呼ばれた機関車で、共に三重県の伊賀鉄道から購入したようです。
それぞれ“国鉄1215形” “国鉄1245形”として当時の鉄道省に在籍していた車両の同型機で、どちらも車軸配置0-6-0 (C) の2気筒単式サイド・ウェルタンク機関車。
このクラスのものは大正時代に大量に輸入されており、日本各地で活躍していたとのことです。

それにしても、4万9000円というのは2両の金額でしょうか?
FileNo.9で紹介した【初代下泉橋】(鉄線吊橋)の架橋費用とほぼ同額じゃないですか…。

まあまあそんなわけで、この機関車が2両の客車(+貨物車)を牽引する、というのが標準編成であったようです。

次に、各駅間の所要時間を見てみましょう。
まず下り金谷発横岡行き列車の所要時間は、金谷→新金谷12分、→五和10分、→横岡6分となっています。
上り横岡発金谷行き列車の場合は、横岡→五和6分、→新金谷11分、→金谷14分で計算されているのがわかります。

金谷〜新金谷間においては、上りと下りで2分の差がありますね。
ここを読んでいる方々ならばご存知だと思いますが、新金谷から金谷に向かう上り列車の場合、かなりの急勾配が延々と続きます。
当時の蒸気機関車が非力であったかはどうかはまた別の問題だと思いますが、当然、坂を登る列車よりは降る列車の方が早く着くのだろうと思うのは素人考えでしょうか?
それとも、降る列車がキッチリ速度を落として、登っていく列車の所要時間と同じになるようにダイヤを組むんでしょうか?
特に今回検証しているような事例(途中駅で上下列車が交換しない)の場合はどういう判断をするのでしょうかね。
なかなか興味深いところです。

但し忘れてはいけないのは、上り金谷行の金谷駅の欄に示されている時刻が金谷“着”の時刻であるのに対し、
下り横岡行の新金谷の欄に示されている時刻は、新金谷“発”の時刻である点ですね。
つまりは到着してから客扱い・荷物の積み下ろしや、もしかしたら上記のような機関車の付け替え、燃料補給まで済ませた後の出発時刻であるはずなのです。
この“到着”と“出発”の時刻の差がどうなっているのかを読み取る事は、どうにも困難ですね。

時刻表の中央部には、【 省線(金谷駅)】と書かれているのが見えます。
【省線】とは当時の鉄道省の管理に属した鉄道線のことで、この場合は現在のJR東海道線と考えれば良いでしょう。
つまりは金谷駅での接続時間というわけですね。
ただし、この省線の欄に書かれた時刻はとても読みづらかったのでかなりの部分が間違っていると思われます。
当時の省線の方の時刻表と照らし合わせれば正解が見えてくると思いますが、それはまたいずれ。

この時刻表には横に運賃表(賃金表と表記)が併記されていました。

大井川鐵道 昭和二年版 運賃表

書式は現代風に手直ししています。
なかなか独特な表組みが成されたこの運賃表ですが、とても分かり易い!…のは4駅しかないからでしょうね。
金谷〜横岡間の運賃は第1話で引用した内容の通り、24銭となっています。



そして、次に営業を開始したのは昭和4年(1929)12月1日の金谷〜家山間。
これに伴って 新しく作られたのが昭和4年12月版の時刻表です。

大井川鐵道 昭和四年版 時刻表

昭和2年版では横書きの所が右から左へ書かれていましたが、この時刻表からは左から右へ書かれるようになりました。
また昭和2年版と同様、中央部に省線との接続時間が書かれているのですが…。
これまた文字が見辛くて、ほとんど判別できません。
とりあえず分かる所だけ書いておきました。

パッと見て分かるように、家山まで開通したこの時期においても、今回の主題である横岡駅へ寄る便はしっかりと存在していました。
上下2本ずつではありますが…。
とにかく、この便のために福用駅の駅名標には【ごか】【よこおか】が併記されていたわけですね。

昭和6年 福用駅 駅名標
清水文庫【大井川下り_昭和6年7月4日(島田駅の様子、車で新金谷へ、ここから大井川鉄道の車窓、中川根付近で下車、大井川下り、大井川保勝会、秋野さんら)】より抜粋

おそらく五和駅には【よこおか】【ふくよう】が併記された駅名標があったはずですが、確認のしようもありません。

それでは各駅間の所要時間を見てみましょう。
下り金谷発家山行きの便は、金谷→新金谷8分、→五和7分、→横岡7分、→福用23分、→家山10分で、五和→福用は20分となっています。
上り家山発金谷行きは、家山→福用12分、→横岡24分、→五和6分、→新金谷9分、→金谷7分で、福用→五和は19〜21分とややバラつきが。

金谷〜横岡間しか比較はできませんが、ほぼ平坦な道のりの横岡〜五和間はほとんど変わりないようです。
しかし同じく平坦でありながら少し距離が離れた五和〜新金谷間では2〜3分の時間短縮が見られます。
また、勾配のきつい新金谷〜金谷間ではなんと4〜7分も短縮。
何か理由があるはずですが、思いつく事と言ったら性能の高い新型機関車の導入くらいですかね…。

Wikipediaの情報と照らし合わせてみると、確かに昭和4年(1929)9月【15】と呼ばれた機関車が1輌、入線しているようです。

昭和6年 新金谷駅 風景
清水文庫【大井川下り_昭和6年7月4日(島田駅の様子、車で新金谷へ、ここから大井川鉄道の車窓、中川根付近で下車、大井川下り、大井川保勝会、秋野さんら)】より抜粋

これは昭和6年の映像ですが、【15】号機関車の牽引する列車が新金谷駅で停車している様子を写しています。
さすがに細かい情報を読み取ることはできませんが…。

しかし時刻表を見て分かるように最低でも2編成が必要なはず。
1編成だけ高性能車に置き換わったとしても、遅い方に合わせた時間設定にしなければならない…のでは?と思います。
真相はどうなんでしょうか。

ところで、2編成の列車が同時に走っていたということは、単線の大井川鐵道ではどこかの駅で上下列車の交換(すれ違い)が行われたはずです。
どの駅で交換が行われていたのでしょうか?
この時点で開業している駅について見てみると、全ての駅において交換が可能だったはずです。(島式ホームで複線になっている。)
そこで、交換が行われていると思われる部分に色をつけてみました。(現物は全てモノクロで書かれてます。)

まず、青文字で示したのがごく普通の交換。
全て福用駅ですれ違っていたようですね。

しかし問題は赤文字緑文字の便。
いずれも同時刻に五和駅・福用駅を出発しています。

五和〜福用間の所要時間が平均して約20分かかるようですが、これらの便においてもそれは変わらず。
となると、どうやら五和駅〜福用駅のちょうど中間あたりで上下列車が交換している事になります。
おそらく駅ではない所に交換のための待避線があったのだろうと考えられますが、それはどこなのか…。

予想できるポイントは2つ。
1つは現在の神尾駅がある地点。

地蔵峠隧道
図説 金谷町史 2005 より

神尾駅を千頭方向に出て直ぐの位置にある地蔵峠隧道はかなりの難工事でありました。
その効率を上げるために最初から終端部に複線区間を設けておいたのではないか?
そしてそれが、後の待避線として列車の交換に利用されたのではないか?という予想です。
可能性としてはなかなか高いと思いますが…、問題なのはその距離。
現在の五和(合格)・神尾・福用の位置が当時と変わっていないとすると、五和〜福用間7.3kmのうち、五和〜神尾間が4.8km神尾〜福用間が2.5kmとなっています。
どうにも五和駅〜福用駅のちょうど中間…とは少し言い難いですねぇ。
この場合、距離が短いため先に神尾に着いてしまう上り列車(金谷行き)が長い時間待たされることになり、所要時間が増えてしまうはずです。
急カーブが多いとか、勾配にかなりの差があってなんやかんやで総合的には中間地点になるよ、という考えも無くはないですが…。

そしてもう一つの予想ポイント
居林駅

居林駅
国土地理院地図より

よほどの大鉄マニアしかその存在を知らないと思いますが、かつてこの地図のあたりには居林駅という一時的な停留所があったのです。
官報によると、その位置は五和から2.1マイル(約3.6km)《注:後で計算し直したら正確には3.38kmでした》とのこと。
前述した五和〜福用間7.3kmの、ピッタリ中間地点にあたるじゃないですか。
これは怪しい。

となると問題は、その駅には列車交換できるような待避線があったのか?という事になりますが、現在では(現行の列車から見るぶんには)すでに跡形も残っていません。
さらには現地へ行く道どころか現地そのものが特定されていない事から、何らかの紙媒体での資料以外には確認のしようがない状況…。

昭和6年 居林駅 風景
清水文庫【大井川下り_昭和6年7月4日(島田駅の様子、車で新金谷へ、ここから大井川鉄道の車窓、中川根付近で下車、大井川下り、大井川保勝会、秋野さんら)】より抜粋

【清水文庫】所蔵の動画の中にも“居林付近”と中間字幕が付けられたシーンがありますが、走行中の窓から大井川を写した映像となっており、駅そのものは写っていません…。

しかし一つの希望として、【RM LIBRARY 96 大井川鐵道 井川線】(白井昭 著、ネコ・パブリッシング、2007)という本に描かれた「大井川流域の鉄軌道」と題された簡易地図の存在があります。
これはFileNo.5の五和側線FileNo.8の八光山森林軌道でも取り上げた地図ですが、ちょうど該当する部分に、…ちょろっと… 駅名などは書かれていない短い引き込み線のような実線が描かれているのです。
規模の大小まではわかりませんが、おそらく列車交換できる程度の待避線があった事を示しているのでは?と思います。
根拠としては弱いですが、このサイトでは「居林駅で列車交換が行われていた説」を採用したい。

とまあ、やや浅い物言いになってしまったわけですが、実はこの居林駅については、いずれ物件として調査する予定なので、今回はここまでなのです。
いつになるかはわかりませんが、お楽しみに。

さて次に、終着駅での待機時間について考えてみます。
金谷駅での待機時間は基本的に20〜30分で、昼の便(金谷発1:35の便)だけが47分設定になっています。
これは昭和2年版の項で検証したのと同様、“一度 新金谷駅に回送されて補給をした説”が当てはまるんじゃあないかと思います。

で、問題は家山駅。
家山駅では 朝晩の通勤時間帯こそ23分ほどの設定ですが、それ以外の時間帯は1時間〜1時間半というかなり長い待機時間があります。
ん〜これはやはり、不自然。
金谷発と同じような出発間隔にするとか、もう少しバランスよくするのが普通だと思うのですが…。

これには必ず何か理由があるはず。
で、ひたすら時刻表を眺めていた時にようやく気付きました。
その答えは 次の昭和5年版の時刻表にあったのです。



とまあそんなわけで、次に検証する時刻表は昭和5年(1930)7月16日の金谷〜地名間開通時に作られたもの。
この時の昭和5年版時刻表は冒頭で紹介したSL資料館にもありましたが、「図説 中川根の歴史」(平成14年 中川根町史編さん委員会 発行)にも載っていました。

大井川鐵道 昭和5年 時刻表
図説 中川根の歴史 より

右上に昭和5年(1930)7月16日改正と書かれているのが見えますね。

早速、先述の“家山駅の長時間待機の謎”について。
ここで見比べて欲しいのは、下り列車(千頭行き)の金谷駅・家山駅出発時刻。

大井川鐵道 時刻表 比較

ほとんど同じじゃあないですか…。
家山までしか行かない便(昭和4年)と、さらにその先の地名まで行く便(昭和5年)がほぼ同じ時刻設定になっている…と。
では、地名駅で折り返した上り列車(金谷行き)の家山駅出発・金谷駅到着時刻はどうなっているのか。

大井川鐵道 時刻表 比較

パッと見たところ2〜3便に大きなズレがあるようですが、最大でも30分ほど。
この上り列車においても、ほぼ同じと言えると思います。

これらから想像できること。
それは、昭和4年版の時刻表は、近い将来に開通を予定している地名駅までの所要時間を見込んで作られたものだったという事です。
家山駅での待機時間は、後年、そのまま家山〜地名間の往復時間に振り替えられました。
時刻がズレている便には、何かしらの調整が入ったのでしょうか。

しかしその為には、計画している家山〜地名間の距離や勾配など割と具体的な情報が必須のはず。
そこで【大井川鉄道30年の歩み】(大井川鉄道株式会社/編 1955)の歴史年表から、この件に関係する出来事だけを抜き出してみました。

[A]昭和2年 6月10日:金谷〜横岡間 運輸営業開始
[B]昭和3年 7月20日:金谷起点八粁(キロメートル)〜家山間、工事着手
[C]昭和4年 4月 6日:家山〜塩郷間工事着手
[D]昭和4年12月 1日:家山駅営業開始
[E]昭和5年 1月20日:塩郷〜青部間工事着手
[F]昭和5年 7月15日:家山〜地名間運輸営業開始
[G]昭和5年 7月16日:家山〜笹間渡間運輸営業開始
            :笹間渡〜地名間運輸営業開始

これによると、家山駅の開業日[D]より8ヵ月も前から、既に地名駅の次の塩郷駅までの工事[C]に着手したと書かれています。
具体的なルートも決定済みで 測量もほとんど済んでいたのでしょう。
それらの情報から、未開通区間がどのくらいの所要時間になるかを計算して、昭和4年版の時刻表を作成したのだろうと考えられます。
さらに見ると、地名駅の開業日[G]の半年近く前から青部駅までの工事[E]は始まっていたようですね。
しかし昭和5年の時刻表によれば 地名駅での待機時間は どの便も20分ほど。(昼の便を除いて。)
この時は次の営業区間を見越しての時刻表作成はしなかったようです。
([F]の記述についてはです…。)

それでは、他の部分についても見ていきましょう。
昭和4年版までは漢数字で書かれていた時刻が、算用数字で書かれるようになりました。
しかし【発】【駅】という字が【發】【驛】であったりと、まだまだ時代を感じます。

ところで、どういうわけかこの昭和5年版と後の6、8年版においては“時間表”となっています。(昭和2、4年版は“時刻表”でした。)
それともう一つ、今回取り上げている時刻表は全て、“午前/午後”の12時間制で表記されています。(13:00を午後1:00と表記)

現代では ほぼ全国的に“時刻表”であり、24時間制で示されているのですが、いつ頃変わったのでしょうか?
この辺りの事情について調べてみたところ、どうやら当時の国有鉄道(現JR)が昭和17年に24時間制を採用したことと関係があるようです。
例えば昼の12:00と夜の12:00を表そうとした場合、12時間制の表示では紛らわしいですからね。
地方の民間鉄道であった大井川鐵道も、これに倣っていたのかもしれません。
(混乱を避けるため、ここでは“時刻表”で統一しています。)

さて時刻表の内容に戻りますが、横岡駅に寄る便を見てみると昭和4年版同様、上り・下りそれぞれ一日に2本が設定されています。
まだ旅客営業が停止されていないのは、第1話でまとめた年表の通りですね。

全体を見ると、概ね一時間半に1本、くらいの運行になっています。
最低でも2編成が必要なダイヤである事、上り・下り共に最終便は新金谷止まりである事、は変わりないようです。

ここでも、列車の交換について検証してみましょう。
時刻表を追っていくと、2本を除いて福用駅で上下列車の交換をしていたのがわかります。

大井川鐵道 昭和5年 時刻表
図説 中川根の歴史 より

その2本のうち、上り/地名11:57発と下り/金谷11:24発の便が交換する駅が家山駅になっています。
この便は横岡駅に寄るため、他とは違った運行になったのでしょうか。
そしてもう1本は、上り/地名16:32発と下り/金谷16:48発の便(赤枠)ですが、どちらもほぼ同時刻に福用駅・五和駅を出発しています。
この便もまた、昭和4年版の検証をした時と同様、五和〜福用の中間地点で交換をしたのだと考えられます。

各駅間の所要時間を見てみると、昭和4年版の時とほとんど変わっていないようです。
福用〜家山間のみ所要時間に若干の変化が見られますが、これも“到着時間”と“出発時間”の違いによるものかと思います。

金谷〜地名間の所要時間を計算したところ、直通で65分、横岡へ寄る便が74分くらいとなります。
中間駅が6駅も増えた現在の普通電車が43分で繋いでいる事を考えると、現代の感覚からすると かなりのゆったりペース。
地名駅が起点(金谷駅)から約22.9kmの位置にあるので、最高速度が30km/hの井川線よりも遅い感じになるのでしょうか。

この時刻表にも、中央に【省線 接続列車】と書かれている欄があります。
時刻を見るとどうやら省線から大井川鐵道に乗り替える際の案内のようです。

右下には汽車賃金表(運賃表)が載っていますが、掠れていて読めません…。
所々がかろうじて読める程度。
金谷〜新金谷間が9銭、金谷〜横岡間が24銭と見えるので、このあたりの運賃は開業当初から変わっていないようです。(第1話、又は昭和2年版時刻表(復刻版)参照)



この次に旅客営業を始めるのが、昭和5年9月23日の金谷〜塩郷間。
そして昭和6年2月1日の金谷〜下泉間と続くわけですが…。
この時に改定されたはずの時刻表を、未だ目にしていません…。



では最後に、金谷〜千頭間が全通した昭和6年版の時刻表を。
…と言いたいところですが、これまた入手できておりませんで…。
冒頭で書いたように、SL資料館にあったのは“千頭駅発の時間”のみ書かれたもので、検証のしようもありません。

今回の物件の主役である“横岡駅”が廃止されたのは、金谷〜千頭間の営業が開始された翌日、昭和6年12月2日というのが定説です。
この時の時刻表を見れば、新しい事実が見つかるかもしれない!と期待したのですけどね…。

まあどこからかひょいと現物が見つかるかもしれませんからね、まだまだ追いかけていきますよ。

情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい!

*** 追記終わり ***




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