大井川鐵道 横岡駅を知る

横岡駅

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第1話 第2話
追記編
第3話 第4話 第5話 第6話 第7話

第5話 私が「機回し」を見たのはあの時だった。


前話までのまとめ。

・大井川鐵道開業当時の金谷〜家山間においては、新金谷駅にのみ転車台が存在した可能性がある。
・順次開業していく中で、どの駅にも機回し(進行方向を変える際に機関車を先頭に付け替える作業)ができる複線(又は機回し線、留置線)があった。

という事が判明しています。
今回は、塩郷〜下泉までのお話になります。



次の開通区間は、昭和5年(1930)9月23日の金谷〜塩郷間。

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我が社の足跡 より

写真は塩郷から地名方面を見ています。
塩郷堰堤(塩郷ダム)はまだ無い頃です。(昭和35年(1960)完成)
よく見ると、大井川には何枚かの筏が浮かんでいます。(クリック後の橙枠)
写真中央やや右側に何らかの構造物があるようですが、これは地名発電所の取水口でしょうか?(クリック後の赤枠)
地名発電所が建設されたのは明治43年(1910)で時期的な矛盾はありませんが、もっと大きな堰でもって導水している写真を何枚か見た覚えがあります。
しかしこの写真の撮影時にはまだ筏流しが行われている(水の流れがある)ことから、その大きな取水堰が作られたのはもっと後年という事なのでしょう。

さて、ここ塩郷駅にも転車台はありませんでした。
とはいえ前話の地名駅の所で取り上げたように 当時は既に両運転台方式のガソリンカーを4輌導入していたのですから、客扱いの運行については さほど問題なかったのではと考えられます。

問題は貨物列車。
あくまでもここはの終着駅であり、ここから先への延伸工事はまだまだ行われていたわけです。
建設資材を満載した貨物列車を牽引するため、蒸気機関車の出番は多かったはず。
となると、転車台はなくても せめて機回しをするための設備ぐらいは欲しいところ。
機回しが出来なければ、金谷行の列車は少なくとも次の地名駅まで“バック運転&推進運転”するはめになるわけです。
(連結部にバッファ(円盤状の緩衝器)が付いていないタイプの車両では、推進運転(機関車が列車を後ろから押す)は推奨されません。)
現に、これまで見てきた全ての駅には そのための複線の類が備わっていました。
しかしご存知の通り現在の塩郷駅は【 大井川|線路ホーム|道路|山 】の順に隙間なく配置されており、複線を敷けるだけのスペースなど想像もつきません。

それでは、そもそも塩郷駅は開業時から単線だったのでしょうか?
塩郷駅の歴史を追っていくと、現在の形になったのは ごく最近であることがわかります。

現在より1世代前の塩郷駅は【 大井川|ホーム線路|道路|山 】という配置でした。
またその頃 塩郷駅には見事なの木があり、その桜と大鉄の車輛群を写真に収めようと、多くの愛好家がここを訪れたはずです。
そんな当時の写真を、おざよう氏が制作されているブログ【おざようの過去ネタ三昧3】の中の、【塩郷のしだれ桜 他(大井川鉄道)】というページにて見ることができます。(昭和63年(1988)4月11日撮影とのこと)
リンク先にある1枚目、2枚目の写真がまさに1世代前の塩郷駅。
満開の桜の向こうに、小さなホームが見えます。
線路を渡った左側には簡易な駐輪場があり、記憶が正しければ汲み取り式の便所もあったような…
そのさらに左にチラリと見える道路が県道77号線。
ご覧のようにこの塩郷駅のある地点は山肌がギリギリまで迫っており、山と線路に挟まれた77号線はとても狭く、片側交互通行を余儀なくされる区間でもありました。

ここでもう一つ、この時代の塩郷駅を捉えていたサイトをご紹介します。
kk-kiyo氏が運営されているブログ【ローカル線の回顧録】の中の【第619話 1992年大井川:吊掛車乱舞(その4)】に掲載されている2枚の写真に写っています。(撮影日は平成4年(1992)11月とのこと)
氏と直接コンタクトを取り、写真転載の許可を頂くことができました。

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ローカル線の回顧録 より

まずはこの写真から見ていきましょう。
木々の紅葉も終わり、大井川沿線はこれから冬支度を始める所でしょうか。
色々と着目していきたいポイントがあるのですが、ここはグッと堪えて塩郷駅にのみスポットを当てていきましょう。
よく見ると、右端にホームがあるのがわかります。(クリックで拡大)
現在とは比べ物にならない位の乗客が見えますね!
その少し左に自動車の後部と僅かに建物らしき構造物が写っていますが、この白っぽい建物は 車との位置関係からわかるように道路の向こう側(山側)に建っているようです。
おそらく、現在では観光客向けの駐車場になっている場所かと思われます。
塩郷駅はこの頃も無人駅であり、おざよう氏の写真でも確認したとおり簡易な駐輪場とホームのみの構成でした。
ちょうど5両編成の電車が滑り込んでくるところですが、その到着後を捉えたのがもう1枚の写真。

大井川鐵道塩郷駅
ローカル線の回顧録 より

風光明媚、とはこういう事か。
いずれの写真も地名側の河原から撮られていますが、なかなか珍しいように思います。

大井川鐵道塩郷駅
ローカル線の回顧録 より

駅付近を拡大した状態。
ホームが大井川側にあるのがよくわかりますね。
写真の注釈に詳しく書かれていますが、まあ現在ではありえない状態。
ホームが短いので乗り降りできる車輛扉は2輌分だけですが、ホームにかかっていない車輛扉までもが開いています。
確か「○○の扉をご利用ください」といった車内アナウンスがあったような…どうだったかな…。
乗客も“当然の事”と理解しており、むしろこの状況すら楽しんでいたように思います。
またこの場合、後2両と前3両はそもそも別の編成なので貫通扉などは当然無く、一度乗ってしまえば互いを行き来する事はできないです。
ちなみに先頭車輛(右端)にはお客は乗っていません。
牽引するための機関車と考えると分かり易いかと思います。

さて、この道路状況を解消するために道路の拡張(おそらく1990年代後半?)が成され、現在の塩郷駅になりました。
この道路拡張工事に伴って行われた線路の川側への移設作業ですが、その最中を写した貴重な写真を とあるサイトで見ることができます。
ただ残念ながら現在は更新・運営をストップされているようで、コンタクトも取れない状態のようです。
(“塩郷駅”“数年前の大鉄”で検索をかけてみてください)
そちらの写真を見て頂くと、現在の線路に対して1世代前の本線がどこを通っていたか、よくわかります。

それではこれ以前の塩郷駅はどうであったのか?という話になりますが。
かつて、上記で確認した簡易な駐輪場のあたりには木造の旧駅舎がありました。
この様子は昭和53年(1978)公開の映画はつらいよ 噂の寅次郎」で見ることができます。
木造の小ぶりな駅舎でしたが立派な改札もあり、おそらく1980年代中頃までは残っていたように思います。
渥美清さん演じる寅次郎も、この改札を通っています。
この映画は、主に長野、北海道と、大井川沿線(島田市の蓬莱橋・向谷の大井神社、塩郷堰堤・塩郷駅、千頭駅周辺)で撮影されており、大井川鉄道のSL(C11227)も登場しますよ。

ここで、この時代の塩郷駅を捉えた写真が掲載されているサイトをご紹介。
M.TADA氏が制作されているブログ【汽車・電車1971〜】です。
このサイト内の【私鉄を訪ねて】から【大井川鉄道1979・8】という頁を辿った中にあります。(昭和54年(1979)8月10日撮影とのこと)
今回、管理者のM.TADA氏とコンタクトを取り、写真を転載する許可を頂きました。

まず1枚目がこちら。

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汽車・電車1971〜 より

ホーム上から千頭方面へ向かっての一枚。
ホームを降りた先には線路を渡る踏板があり、その先にはかつての旧駅舎が写っています。(クリックで拡大)
出迎えに来た人々なのでしょうか、その向こう側にわずかに写っていますね。
木製電柱に付けられた電灯も、なかなか良い味を出しています。
そして右端の小屋には【W.C.】の表示が!

それでは2枚目に参りましょう。

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汽車・電車1971〜 より

遠景ではありますが、旧駅舎はこんな感じでした。
手前にはあの見事な桜の大木が写っていますね。
これが2世代前の塩郷駅だったのです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

…話は少し脱線しますが。

上の写真(及びリンク先の他の写真も)を見て、どのように感じられるでしょうか。
違和感。不自然。空虚。

大井川中流域は昭和35年(1960)〜昭和64年(1989)もの長い間、この写真のような状態でした。

大井川の水返せ運動
国土交通省 航空写真 より(昭和51年(1976)撮影)

水が無い。

これは現実にあったことです。
是非 “大井川の水返せ運動” で検索してみてください。

リニア問題で とかく悪く言われがちな大井川ですが、

もう二度と大井川を【水無川】にしてはいけない。

この思いが全てです。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

さて、この時代においても塩郷駅は単線でした。
ただし、当時の写真をよーっく見ると、ホームの川側に不自然な平場が見えると思います。
これは、以前には島式ホームの両側に線路が敷かれていたものが 何らかの理由により1本に縮小された時の典型的なパターン。

大井川鐵道塩郷駅
汽車・電車1971〜 より

つまりはこんな感じに。

というわけで、3世代前の塩郷駅について。
結論から書いてしまうと、塩郷駅も複線+島式ホームだった事が判明しました。
その衝撃的な写真がこちら!

大井川鐵道旧塩郷駅

・・・はい。

え〜っとこれは、2017年に発行された【 写真アルバム 島田・牧之原・榛原の昭和 】( 佐々木高史・2017 )の93頁に掲載されていた写真を忠実に(感覚には個人差があります)再現したイラストです。
線路脇にはまくらぎらしきものが積まれており、桜の大木も健在です。
ホームには荷物が置かれていますが、次の列車に積み込むのでしょうか?
電柱にある広告看板は不鮮明ながら「石川電気商会」と書かれているように見えます。
駅名標は【しをごう】となっていますね。
注釈を引用してみると「 大井川鉄道の塩郷駅。左には大井川が流れ、それに沿うように線路が走り、ホームがある。たたずまいがとてもなつかしく感じられる。右の岸の奥には塩郷の吊り橋の主塔が見える。県道の拡幅工事と護岸工事にともなって本線が大井川寄りに5mほど移設され、現在のホームの右手はすぐ県道となっている。〈旧中川根町・昭和30年代〉 」( 写真アルバム 島田・牧之原・榛原の昭和 より) とあります。
いやはや実に衝撃的な写真ですよ。

塩郷駅は開業当初からこの線形であり、機回しが可能だった!

…と、言い切りたいところですが。
注釈にあるようにこの写真は昭和30年代のもの。
昭和33年(1958)に着工し、昭和35年(1960)に完成したという塩郷堰堤の建設資材を降ろすため、後年になって設えた設備である可能性も捨てきれません。

何にせよ、昔の塩郷駅には機回しをするスペースは十分にあった、と言えそうです。



さてさて、塩郷と言えば これに触れないわけにはいきません。

久野脇橋
我が社の足跡 より

この写真は昭和15年当時の久野脇橋。
一般には“塩郷の吊り橋”と言った方が通りが良いのですが、【久野脇橋】が正式名称です。
で、これが初代の久野脇橋なのか?というと、ちょっとハッキリしません。

まずは“橋梁史年表”の情報を見てみると、開通したのは昭和3年(1928)で橋長200mの鉄線吊橋、とされています。
しかし【 中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌 】(平成4年)によると、昭和7年(1932)3月架橋となっており、かなり差がありますね。
また、【 我が国における明治期の近代的木造吊橋の展開(その6) 一大井川水系における人道釣橘の変遷一 】(山根 巌)という論文には
「昭和19年(1944)3月中川根村久野脇と塩郷間の大井川に、日本発送電(株)により久野脇水力発電所の連絡用の人道橋として久野脇橋が架設された。〜略〜 地元の人々もこの橋を利用して往来していた。」
とも書かれていますが、上の写真が載っている【 我が社の足跡 】(大井川鐵道株式会社)の発行日が昭和15年(1940)であるため、これは初代橋の記述ではないようです。
とまあこのように、書かれている情報があまりにバラバラなため どれが正解なのか…。

*** 追記 ***

久野脇橋 塩郷側主塔の左側(下流側)に、橋歴が刻まれているとの情報を頂きました!
それがこちら!

久野脇橋橋名板
提供写真 より

かなり風化が進んでいて読みづらいのですが、どうやら
【昭和七年十一月竣工】
と刻まれているようです。
これで初代橋の竣工日が確定しましたよ。
情報、ありがとうございます!

*** 追記終わり ***

また昭和30年代に新たに架け直されているようなのですが、これまた架橋年が本によって違っていたり、全て架け替えなのか主塔はそのままなのか?正確なところがどうにも判明しませんでした。
写真奥に見える久野脇地区側の主塔を見ると現在のものと同形状に見えますが…。
【 中川根 ふるさとの足跡 町政30周年記念誌 】(平成4年)に載っている年表によると、「 昭和36年11月10日に“久野脇橋・下泉橋・中徳橋”の3橋開通式が行われた 」とあり、今のところこれが一番有力な情報です。

そしてその後の昭和58年(1983)4月、久野脇橋は改修され、現在の吊り橋になりました。
現在では“恋金橋”(こいがねばし)という愛称が付いていますが、これは旧中川根町の町制施行40周年(2002年)の際に付けられたもの。
いくら若い観光客を呼び込みたいとはいえ、その名前はちょっとどうなのよ…?
…と、思っていた時期が自分にもありました。
これ実際には突飛な命名というわけでは決してありません。
この“恋金”というのは久野脇地区にある字名で、初代吊橋の架橋以前、塩郷と久野脇を結んでいた渡船場があった場所のことなんだそうです。
(明治31年(1898)11月付の、久野脇〜塩郷間での渡船営業願書の存在が確認されているようです)
この恋金にまつわる昔話は、くのわき親水公園キャンプ場のサイト内にある【くのわき昔話】にて読むことができますよ。



大井川鐵道に話を戻すと、昭和5年(1930)8月23日、当初の終着点を東川根村藤川とする計画であったものを上川根村千頭に変更するよう届け出ています。

五万分の一 千頭

ここで言う“東川根村藤川”とは、千頭の対岸にある地区のこと。
すでに青部までの工事に着工しているこの時期に、なぜ終点を変更したのでしょうか?
これについては次回、少し追ってみたいと思います。



さてその次に開業したのは、昭和6年(1931)2月1日の金谷〜下泉間。
この下泉駅を金谷側に向かってすぐの場所にあるトンネル(横郷トンネル)が、なかなかの難工事だったようですね。
これは、当時 敷設に関わっておられた方のインタビューとして読むことができます。
「一番苦労したのはトンネル掘りですよ。〜略〜 水が出ることもありましたね。特にひどかったのは下泉トンネルでねえ、あまり水が出るので確か初めてセメント工法を使ったと思います。」(静岡新聞社・静岡県 鉄道物語 より(1981))

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国土地理院 航空写真 より

これは現在の下泉駅の航空写真です。
島式ホームが一つと、3本の線路があります。
クリック後は昔の下泉駅周辺。
青線がホームですが、線路右側に今は無き貨物積み込み用ホームがありました。
赤枠で囲ってあるのが、当時ここにあった製材所。
FileNo.7の境川隧道やFileNo.9の下泉橋でも触れましたが、この周辺や周智郡方面で切り出された木材は下泉駅に集められ、ここから搬出されていました。

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我が社の足跡 より

こちらは昭和15年頃の下泉駅周辺の様子。
貨物列車が確認できますね。
線形や駅前道路の流れは今とあまり変わっていないように見えます。
また、少し時代が下った昭和30年頃の下泉駅の様子は、上でも紹介した【 写真アルバム 島田・牧之原・榛原の昭和 】の94頁、135頁でも見ることができます。

ここ下泉駅においても転車台はないが、機回しはできた、という事になりますね。



次回は千頭開通までのお話と、転車台の追及をしていきます。



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