現代に続く三弦の橋
万世橋
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第5話 間抜けで哀れな探索者がいた。調査時の話だ。
今回は歴史調査・後編!
4代目から現代に至るまでの調査報告になります。
改めて、現時点で得られている情報から作った暫定年表を。
[1] 明治41(1908)年:初代橋 架設
[?] 大正??(****)年:架け替え?
[?] 昭和??(****)年:架け替え?
[2] 昭和24(1949)年:2代目橋 竣功
[3] 昭和30(1955)年:3代目橋 竣功
[4] 昭和43(1968)年:4代目橋 竣功
[5] 昭和63(1988)年:歩道橋 完成
今回はこの中の
[4] 以降についてになります。
まず最初に。
前話や
FileNo.4 昭和橋で取り上げた
【大井川総合開発計画】について少し触れたいと思います。
とはいえ その内容全てをまとめるのは無理なので、
橋梁の整備に関係ありそうな部分だけを拾ってみました。
戦後、全国的な
“国土開発計画”が動き出したのに合わせ、
昭和23(1948)年に県では
「静岡県振興計画」を策定します。
重点に置かれたのは
「終戦後社会的経済的に悪条件下にある県民の食生活をはじめ当面の民生安定の施策」でした。
そして様々な分野における施策が計画される中に、
「大井川を利用した電力開発に努める」という項目がありました。
これが
【大井川総合開発計画構想】の始まりとされています。
中川根町史より
この計画が地元住民にとって現実的な問題となったのは、
昭和27(1952)年10月に 政府が
“電源開発基本計画”を策定し、この
大井川総合開発計画を基本計画中に組み込んだ事からでした。
具体的に言うと、
「大井川に発電用ダムを多数建設すること」です。(上図参照)
当然、発電用に取水されれば大井川の水量は激減し、流域にかなりの悪影響を及ぼします。
(水田の壊滅、茶の品質低下、木材の流送への影響、工業用水の減少などなど)
しかしこういった
総合開発計画の作成は国、または都道府県の権限とされており、市町村の関与は認められていませんでした。
つまり、自分たちの住む地域の問題にもかかわらず、
地域住民の意思を計画に反映させる仕組みにはなっていない「押しつけの施策」だったわけです。
ただし
電源開発促進法によって、
“利害関係を有する地元町村からの意見申し出” は認められていたため、大井川流域の自治体ごとの協議会や各組合、あるいは首長らで構成される
「大井川沿岸市町村協議会」などから静岡県知事や建設大臣に対して様々な意見申出書・陳情書が提出されました。
ここでの重要なポイントは、地元関係者は地域の産業・生活・環境に深刻な影響を与えると認識しながら、
全面的に反対という立場を取ってはいなかったことです。
“押し付け”の内容ではあっても対立することは避け、地元住民の具体的要求の実現を求める条件闘争に徹しました。
この理由について はっきりと書かれてはいませんが、ダムを作ることによる不利益と引き換えに 流域の開発やインフラ整備を現実化することを優先させた、という事のようです。
戦後のインフレの影響もあり 財政的に逼迫していた流域の各自治体にとっては、他に選択肢が無かったのではないでしょうか。
“ダム建設に対する補償”について交通関係に注目してみると、前話や
FileNo.4 昭和橋で引き合いに出した
昭和28(1953)年の徳山村からの陳情書などは、まさにこれに該当するものでしょう。
「1953年(昭和28)10月、徳山村長竹中節雄は、静岡県知事斉藤寿夫に対し、大井川総合開発計画に関連し、@東川根・島田線(県道)の改良、 A大井川東西連絡の昭和橋・万世橋など五橋の整備・強化 〜略〜 などを陳情している。当時、大井川東西を結ぶ連絡橋は、県道に位置する下泉橋を除いて、町村組合道であり、林道は町村森林組合道であった。架橋建設や林道開削には莫大な経費が必要であった。55年12月に万世橋、〜略〜 などが建設・開削されているが、これらの経費は町村だけで賄いきれるものではなく、県費補助(四〜六割)を受けての工事であった。」(中川根町史 [ 県道、町村道などの整備・改修 ] より)
この他の例としては、
昭和31(1956)年4月に結成された
「川口発電所建設促進協議会連合会」が県知事・中部電力宛てに提出した要望書があります。
そこから道路整備に関係する部分だけを抜き出してみると、
@県道島田・東川根線の改築(川口〜塩郷間の自動車道の整備)
A県道金谷・中川根線局部改築(全線100mごとの待避所設置、急勾配改修、幅員拡張)
B久野脇橋架け替え(永久橋としての架設)
D県道石上・笹間渡停車場線の改築(笹間川調整ダム建設に伴う止水・水没に対する施策)
となっており、この内容からも
当時の川根街道の道路状況がいかに深刻だったか、想像できます。
とまあこのように、道路網の整備や橋梁の永久橋への架け替えなどは
「大井川総合開発計画」の中で大きく謳われたものではなく、それに伴って発生する
不利益に対する補償要求の成果 という意味合いが強かったようです。
注:その他にも昭和40(1965)年の【山村振興法】による事業などがありました。これら様々な動きが複雑に絡み合っての結果だという事を付記しておきます。
【参考資料:中川根町史 近現代通史編】
[4] 昭和43年(1968):4代目橋 竣功
3代目万世橋竣功の翌年、
昭和31(1956)年9月30日に
【中川根村】は
【徳山村】を編入合併し、新たな一歩を踏み出します。
Geoshapeリポジトリより
さらに
昭和37(1962)年4月1日には中川根村に町制が施行され、
【中川根町】が誕生。(人口は2,021世帯、10,756人。)
藤川・徳山 両地域に限らず、大井川の東西を往来する人数は必然的に増加していきました。
学校関連に目をやると、
昭和38(1963)年4月に組合立徳山中学校と同地名分校、中川根中学校が統合され、
【町立中川根中学校】が開校。
それと時を同じくして、旧徳山中学校の跡地には
【川根高校】(学校名:静岡県立藤枝東高等学校川根分校、定員150人)が設立されました。
中川根町全体の交通量は日々増えていき、道路網の早期整備が求められるようになったのは当然の流れと言えるでしょう。
とりわけ町内の大井川を渡る
6橋(万世橋、宗徳橋、中徳橋、下泉橋、久野脇橋、昭和橋)においては、車両はもちろん自転車や通学児童も安心して渡れる歩道付きの橋梁・鉄筋コンクリートの永久橋の建設を誰もが望んでいたのです。
こうした声に応えるべく、
昭和36(1961)年に中徳橋・下泉橋が、
昭和37(1962)年には淙徳橋が永久橋へと架け替えられました。
(昭和36年に架け替えられた久野脇橋は吊橋のままでしたが、昭和35(1960)年12月に すぐ上流に川口発電所塩郷堰堤が完成し、車両の通行が可能となっていました。)
しかし万世橋においては、小型車が通れたことがかえって仇となったのか、それとも町の中心地から遠く離れた町北端に位置したことが優先度を下げたのか、
相変わらず吊橋のままでした。
(そういえば、同じく小型車が通行可能な吊橋で 町の南端に位置していた【昭和橋】もまた、このタイミングでの永久橋への架け替えは成されませんでした。
もっともそちらは対岸の石風呂地区が別の行政区域(榛原郡下川根村/川根町)であったため、単純な比較はできませんが。)
そして
昭和43(1968)年。
同じ中川根町内にありながら永らく吊橋のままであった万世橋ですが、ついに永久橋へと架け替えられました。
4代目万世橋(現行の橋)の誕生です。
提供写真より
4月26日に行われた
万世橋の開通記念式典の様子。
ペンキこそ真新しいですが、欄干に見覚えがありますね。
これは徳山側から元藤川側を見た写真のようで、一行は向こう側(起点側)からこちら(終点側)へ向かってきています。
上流側(写真右手側)は現在の歩道橋が架かっている場所ですが、そちらには先代の3弦トラス吊橋がまだ現存しており、人が歩いているのも見えます。
この先代橋の落橋や流失により新しい橋ができたわけではないことが、改めて分かります。
……あれ?
えーっと…。
よく見ると…。
並行じゃないね、両橋。
写真のパースのせいでそう見えるのかと思ってましたが、やっぱり
並行に架かってない。
元藤川側に行くにしたがって、両橋の距離は近づいていますね。
これは主塔と主索の向きを見ても明らか。
自分は
「3代目・4代目両橋は並行に架かっていたのだ」と勝手に思い込んでいたので
例の森に目を付けて探し回っていたわけですが、そりゃ
見つかるわけないよな…。
そもそも場所が違うんだから。
ではその正確な場所はどこになるのか?
Click!
これは
昭和42(1967)年、4代目万世橋竣工の前年に撮影されたもの。
なんと、
建設中の橋脚がちょうど写っているという奇跡的な写真!
これを見れば一目瞭然ですよ。
3代目橋(吊橋)は、元藤川側で現在の歩道に合流するような線形をしています。
むしろ年代順で言うなら、現在の歩道橋が3代目橋から続く道に横から合流するように建設された、という事のようです。
上の開通式の写真を手掛かりに 元藤川側主塔の撤去年を推測してみると、まず3代目と4代目が同時に写っている事から、道路橋(4代目)が建設されたタイミングでの撤去ではない事がわかります。
となれば歩道橋整備の際に撤去されたか、現在の国道362号線の拡幅などの整備に伴って撤去されたか、あるいは全然関係ない理由があったか。
いずれにせよ、現在ではもう見ることは叶いません。
[5] 昭和63年(1988):歩道橋 完成
この年、道路橋の隣に歩道橋ができることで
【万世橋】は完成しました。
では、ここまでの調査で分かった万世橋の系譜のようなものを、地図上に乗せてみたいと思います。
国土地理院 航空写真より
[初代:明治41〜]
[2・3代目:昭和24〜]
[4代目・歩道橋:昭和43〜]
青文字の年代のところをクリックして頂くと、橋の描き込みが切り替わります。
橋に続く周辺道路などは航空写真や地図からの勝手な類推であり、正確ではありません。
まあ、こんな感じかな、と。
さてさて ここまで万世橋の歴史を順に追ってきたわけですが、いくつか確認しなければならない事があります。
まず、新たに判明した
初代万世橋の位置について。
元藤川側の袂には少し思い当たるポイントがあるので、なんとか再確認したい。
同時に、残っている可能性は低いが徳山側の遺構も探したいところですね。
とまあそんなわけで、行ってみましょう。
次回は再調査編!!
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