国道473の急カーブ橋

境川橋

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第1話 どこのか、わかりません。


国道473号線を北へ向かい、川根本町にある三津間地区を抜けて瀬沢地区に入る地点。
この両地区の境目には、大井川の支流である“境川”が流れています。

FileNo.07で、この川に沿った道にはかつて隧道(トンネル)があったようだ、という記事を書きましたが、今回もその境川にまつわる話。
場所はここ。

境川橋 Click!
国土地理院地図より

なんとも急激なヘアピンカーブ状の橋。
その名も【境川橋】です。

この橋の周辺を古い地図で見ていた時、ある事に気づきました。。

境川橋 Click!
『千頭』五万分一地形図より

どう見ても 位置が違うよね?

そう、これこそが今回の物件の主題。

境川橋と、その旧橋の歴史を辿る!

…とは言ってみたものの。
この古地図は明治から昭和初期にかけて作成されたもので、地図精度などを考えると怪しいもんですけど…。

まあとにかく事実はどうだったのか、少しでも検証できればと思います。

で、もし仮に旧橋がこの古地図の通り直線的だったのならば、新しい年代の橋は(境川の)より上流に架け直されたということ。
この規模の橋の架け替えにおいて、こういったパターンはちょっとばかり珍しい、と自分は思っています。

橋の変遷 橋の変遷


橋の変遷 橋の変遷

甚だ適当なイメージ図なんですが、わかっていただけますかね…?
土木技術の進歩によって徐々に長距離・高強度・高耐久力な橋が架設可能となるにつれ、下流へ下流へと変移していくのが自然な流れ、と思うのです。
すごく大雑把な考えですけど。
新しい橋が下流から上流へ架け直されるのには、何かしら理由があるはず。



ではこの橋に当てはめてみた時、考えられる理由は何なのか。
これはおそらく、橋の北側(瀬沢地区側)が急斜面であること、が一番の理由だと予想します。
等高線の密度からもそれが伺えるわけですが、ちょっとばかり現在の様子を拾ってみましょう。

境川橋周辺
GoogleMap ストリートビューより

橋を抜けて瀬沢地区へ向かう登り坂。
急坂なうえに、すれ違いの厳しい区間まであります。

境川橋周辺 Click!
GoogleMap ストリートビューより

瀬沢地区から橋へ入る直前の下り坂。
「警笛区間」の看板はまあわかりますが…。
「左方屈曲あり」左方屈曲ありならぬ「左方屈折あり」左方屈折ありの看板ってどうなんだ?!

そこ  だよね? しかも国道上の!

静岡県道36号線(現在は欠番)が平成5年(1993)に現在の国道473号線に昇格した際には 工事が容易な区間や危険性が高い区間だけはしっかり(?)整備されたりしましたが、費用対効果を考えると当分の間はこの姿のままなのでしょう。この区間は。
ましてや大井川の対岸を通る県道63・77号線の方が大井川筋のメインルートとなっている現在では、その優先順位が決して高くない事は容易に想像できます。



さてこれらを踏まえて、例の古地図に記されていた道はどんな感じだったのか想像してみましょう。
片側実線・片側破線で示されたこの道は、里道の中の聯路れんろに区分され、具体的には幅1間半(2.73m)以上で且つ県道の規格に満たない道路、ということになる、らしいです。
この急斜面は現在と変わっていないと思うので、路面の状態などを考えても荷車でさえ通れたかどうか…と言った感じでしょうか。
なんにせよ、自動車が走行できるような道でなかったのは確実です。

現在の道路は当然、自動車が通れる規格(道路構造令)を満たすように造られており、この急勾配を何とか緩和するために 蛇行したり橋自体を曲げたりした結果、境川上流方向への新規架設となった…。
そう考えると、いろいろ納得がいきます。



とにかくこの橋についての史料がないものかと探したところ、2冊の本が見つかりました。
一つは【川根本町の古道】(中川根町史研究会・平成29年発行)という本。
そしてもう一冊が【続 瀬沢と平谷の昔話 境川のはなし】(瀬平昔語編集会・平成8年発行)という本です。

まず最初に、この2冊に限らず様々な文献を当たった上で分かった事を。

・近年では 境川 と呼ばれているが、かつては 河内川 と呼ばれていた。(ほとんどの地域において、村内を流れる小さな沢の事を河内川と呼んでいたようです。つまり、河内川はそこら中にありました。ここでの読み方はたぶん「こうちがわ」かと…。)
・境川という名称が無かったせいなのか、今回取り上げている境川橋の旧橋は 往還橋 と呼ばれていた。

とまあ こんな感じで新しいキーワードがいくつか見つかったわけですが、橋の名称が判明したのは大きい!



これらを念頭に置いて、まず【川根本町の古道】から該当しそうな情報だけを抜き出してみました。

◆久野脇・三津間地区
〜略〜 リヤカーなどが通れるようになったのは昭和になってからが多かったのではないか。

◆瀬澤・平谷地区
〜略〜 下長尾からハナズラ峠を越えて瀬沢を横断し、河内川を渡り三津間へ出る川根街道があったが、明治に入ってから整備されたものと思われ古道としての資料は乏しい。


どうやら、古くは地元の住人が通る程度の道であったものが明治期に入り整備され、さらに昭和初期に拡幅工事によって荷車道になった、と考えられそうです。
とすれば、例の古地図に記された道は整備された徒歩道と考えられるでしょうか。
また、この文中に出てくる“川根街道”については、後ほど検証します。

で、この本には当時の道筋を描いた地図(現代の地図に手描きで記したもの)が、一緒に載っていました。

境川橋周辺 Click!
川根本町の古道より

まずは久野脇・三津間地区の項目に付属していたこちらの地図。
橋!
線が若干ラフではありますが、冒頭の古地図同様、現在の円弧橋よりも下流に描かれていますね。
また、橋から三津間地区へ続いていく線が現道から逸れて、山の急斜面を登っていく方向に描かれているのが気になる所です。

境川橋周辺 Click!
川根本町の古道より

次は瀬澤・平谷地区付属の地図。
この地図にはハッキリと往還橋と書かれていました。
しかも橋の前後の繋がりも、しっかり意図して記されているようです。

まず三津間地区側は、橋を渡り切ったところで現国道にぶつかり、直角に左に折れて集落へ向かっています。
瀬沢地区側は、橋の向きそのままに少し進んだところで急激に2度向きを変え、集落へと繋がっていたようです。
地形と照らし合わせて考えると、急激な方向転換が示すものは九十九折の急坂であったはず。
このあたりは現在 茶畑になっており、その入口として軽トラックが通行可能なコンクリート舗装された私道が整備されています。
この図を見る限りでは 私道にそのまま繋がっているようですが、実際はどうなっているのか?
現地調査で何か掴めれば良いのですが。



さてそれでは2冊目の本、【続 瀬沢と平谷の昔話 境川のはなし】を見てみます。

この本の中の “三津間渡の農工用水と河内川の往還橋”という項目に、この周辺の歴史について書かれています。
(現在では“三津間戸”と書くようですが、ここでは当時の表記に倣って“三津間渡”で統一しています。)

まず冒頭には、この近くに藤田家という酒造家があったこと、2ヘクタール位の水田があったこと、が書かれています。
この水田では昭和16年(1941)、上流に境川ダムが建設されるまで稲作が続けられていたそうなので、例の古地図で確認してみましょう。

三津間渡周辺
『千頭』五万分一地形図より

地図の右側を流れているのが大井川。
この赤丸のあたりに、水田の地図記号がありました。
現在では全て茶畑に変わっていますが、この畑の辺りはとても土地が低く、大雨や台風などでしばしば水に浸かってしまう事があります。
これは元々、水田として開拓された土地だったからなんでしょうかね。
本によれば、「川根街道、往還橋の下流三〇〇メートル辺りで河内川を半ば堰き止めて三津間渡裏山の裾へ河内川沿いに水路を造りこれに水を通した。」とあります。
残念ながら、この水路というのが何処を通っていたのかまでは判明していません。

そしてその後の記述に、当時の橋がなぜ往還橋と呼ばれていたのか、その理由を見つけました。
少し長いですが、引用してみます。

「往還橋とは、往還即ち往き還りと言う事で道路の事である。明治末期川根街道が開けた時、瀬沢の杭田圃に沿って塚野山裾に出来た新道を村人は、田端の往還と言った。道であれば何処も往還である筈なのに、瀬沢と河内川の間だけしか往還と言わなかった。」

この記述によると、少なくとも明治末期には往還橋(旧境川橋)が存在していたようです。
何にせよ、“往還橋”の名前に関連あるはずの“田端の往還”について、もう少し詳しく知る必要がありそうですね。

自分が最初にこの文章を読んだ時、“田端の往還”とは“川根街道”の一部分で、明治時代に整備された往還橋から瀬沢地区を通る新道を指しているのだろう、と読み取りました。

“川根街道”という名称は、先ほどの【川根本町の古道】の文中にも出てきましたね。
では、この“川根街道”とは、一体どのルートを指しているのでしょうか?

現代では島田市金谷地区から大井川西岸を通って川根地方に抜けるルートを川根街道と呼ぶようなイメージがあります。
しかし本来は、静岡中心部から藁科川沿いに北上し洗沢峠を超え、小長井・千頭を経て下長尾、あるいは瀬沢に出て、さらにそこから西の久保尾方面を通過して、森・秋葉山へ抜けるルートこそが鎌倉時代から利用されてきた“川根街道”に当たるようなのです。
これは、【定本 静岡県の街道】(若林淳之・1990)や、【古街道を行く】(鈴木茂伸・2002)という本に詳しく書かれています。
(特に【古街道を行く】では、道中の道標やお地蔵様などが写真付きで紹介されていてとてもリアルな内容となっており、必見です。)

なぜこんな峠越えの山奥深いルートが街道として栄えたのかについては様々な理由があるわけですが、何にせよこの東西ルートの発展は、そのまま川根地域の主な商売相手が 東の静岡・藤枝、西の遠州森町であった事を表しています。(注・江戸時代以前)
では大井川に沿った南北方向の商業圏が確立されなかった理由は何なのか?
それは『道が険しく、船も橋もなかったから』
危険を冒して島田・金谷方面とを往復するよりも、長々と峠を超える方が利があった、という事のようです。

そんなわけで、そもそも“川根街道”は、瀬沢地区から南へは下っていなかったはず。
となると、『瀬沢地区から南へ向かい往還橋を渡って三ツ間へ抜ける』という“田端の往還”は、“川根街道”とは別だったのでしょうか?
本文中にある言葉から、もう少し詳しく追ってみます。

まずは “塚野山” について。

塚ノ山
MapFanより

この周辺で “塚野山” と言えば 瀬沢地区と久保尾地区の中間にある “塚ノ山” が真っ先に思い当たりますが、文脈からしてもっと近い場所、それも瀬沢地区に接する位置にあるはずです。
しかしWEB上で手軽に見られる地図では他に該当するような名前の山は見つからず。
どうしたもんかと思っていたら、先ほど参照したばかりの地図にちゃんと書いてありました。

境川橋周辺 Click!
川根本町の古道より

図中赤丸の位置に、“塚の山”の名前が。
クリック後の写真は、瀬沢地区を抜けて大井川上流方向へと繋がっている国道362号線上から見た“塚の山”ですが、山と言うか丘に近い感じでしょうかね。
おそらくは、地元の人々だけが呼んでいる愛称のようなものなのでしょう。
ここからは見えづらいですが、西側から南側にかけては茶畑が広がっています。
境川は、この塚の山の さらに向こう側を流れているわけです。

ここで気になるのは、図中のピンク線の所に“川根街道”という名称がハッキリ書かれている事。
まさに「塚野山裾に出来た新道」と言ってよい位置。
それも先述した本来の川根街道からは南に外れ、さらには往還橋へ向かって手描きの線が繋がっているじゃあないですか。
これは“田端の往還”の一部と考えて良いのでしょうかね?

この話の舞台となっている明治後期には、大井川では既に通船が許可され、瀬沢地区と隣の平谷地区は大井川を行き交う物資の集積地として非常に栄えていました。
(これについては、FileNo.07でも少し触れています。)
また、大正・昭和初期にかけて自動車の普及(当該地域はまだまだでしたが)と戦争に伴う急速な道路整備が進み、さらには大井川鐵道の開通が決定打となって、古くから東西方向に広がっていた川根地方の商圏は衰退し 変わって南北方向へ徐々に広がっていった。というのが通説のようです。

本サイトではこれらの事から、文中にある川根街道と言うのは、瀬沢地区から南へ向かう、明治時代から昭和初期にかけて整備された新しい大井川沿いルートの事であり、言わば“新”川根街道として現在に繋がっているのではないか?と勝手に結論付けようと思っています。
(かなり強引ではありますが、他の良い資料が見つからなかったので…。)
残念なのは“田端の往還”という名称そのものを 他の本や地図の中に見出すことが出来ていない事です…。
そもそも この呼び名は『村人だけ』が使っていたようなニュアンスで書かれているわけで、他の資料に見つかる可能性は低いと考えるべきでしょうか。

瀬平地区(瀬沢地区と平谷地区を併せての呼び名)
大井川の周辺と農村の移り変わり より




ここで少し脱線しますが、“杭田圃”(くいたんぼ)という単語が気になりました。

現在では茶畑が広がる瀬沢地区ですが、平地の少ないこの地で かつて稲作をしていたと言うのでしょうか?
引用した文章「〜瀬沢の杭田圃に沿って塚野山裾に出来た新道〜」や周囲の地形等を考えると、現在グラウンドゴルフ場になっているあたりに棚田を造ればあるいは…といった印象。
境川は近くを通ってはいますが 集落よりもかなり低い位置を流れており、田んぼの水源とするには不便すぎるし。
少し興味がわいたので、これについても調べてみました。

そもそもこの“杭田圃”とはいったい何なのか?
文字から得られるイメージをそのまま受け取るならば「稲刈り後の稲架掛けが立ち並ぶ田んぼの様子」を表現したのでは?と思うわけですが…。
もしかしたら『独特な造りの田んぼの事なのかもしれない』という可能性は捨てきれません。
なんとかそのあたりの文献が見つからないかと探したところ、1冊の資料がヒットしました。

【民俗事例 島田市鍋島の「杭たんぼ」】(大村 和男 著・静岡市教育委員会 出版)

島田市鍋島と言えば、FileNo.01の神尾弁天調査時に最初のアプローチを試みた地。
この地域の田んぼがどう関係しているというのでしょうか。

さっそく閲覧したいところですが、そもそもこの資料はどこにあるのか?
調べてみると、これがどうやら1冊の本ではなく【古瀬戸遺跡・第二東名建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書】の中に収録されている論文なのだとか。どういうこっちゃ。
この際 例えハズレであっても構わないから、とにかくどんな内容なのか読んでみたい。
というわけで、行ってきました。

静岡県立中央図書館

静岡県立中央図書館。
実は初めて。

書庫で保管されていたその資料には、自分の疑問を全て吹き飛ばすような納得の内容が載っていました。

まず前置きとして、“杭たんぼ”というのは水田の一種でした。
第二東名を建設する際に出土した“小瀬戸遺跡”において、この“杭たんぼ”に該当する跡が見つかった事、島田市鍋島地区には比較的後年(昭和6年頃)まで“杭たんぼ”が存在していたためその調査対象となった事、などの理由から、上記のような収録形態となったようです。

で、肝心のその内容について。

「民俗事例の「杭たんぼ」とは、(あぜ)や水路の壁面に多数の杭を打ち込んで、壁面を補強してある水田で、その残存は大井川中流域から上流域にかけての山間地帯を中心に分布してきた。「杭たんぼ」は、粘土質の軟弱地盤の土質に対応した一種の棚田造成工事と言えるものである。
〜略〜
「杭たんぼ」は大井川中流域の旧川根町を中心に残存分布している。旧伊久身村長島、旧中川根町藤川、田野口、瀬沢、旧本川根町上岸、青部などにあったといわれ 〜略」(民俗事例 島田市鍋島の「杭たんぼ」より)


いやはや、とてもわかり易い!
しかも、瀬沢地区にもあったとハッキリと書かれていますね。

要するに、緩傾斜地における水田造成法の一種だというわけです。
完成した杭たんぼの外観はいわゆる“棚田”と同じなのですが、その段を設けるための素材が石ではなく木の杭であることが大きな特徴だと書かれています。
これは山間地、特に川根地方の特産品となっている椎茸栽培で使用される“ホダギ”(椎茸の原木)を再利用しているため、材料及び補修のための杭を大量に用意できたことが大きな要因だったようです。

杭たんぼの断面構成模式図
民俗事例 島田市鍋島の「杭たんぼ」より

まさに棚田のそれですね。
当時の主食は(ヒエ)(アワ)・芋などで、白米は超貴重品だった時代ですから、山間地域においてはどう稲作をするかというのは重要な課題だったわけです。

また、その他の情報として、
・材料として主に湿気に強い栗の木が使われ、長さは1〜2メートルあった。
・水源には山からしぼれ出してきた水を用いたため、水に困ることがあった。
・6月に雨待ちをして田植えした。
・あくまでも湧水が水源の湿地開発であり、灌漑組織や用水路はあまり聞かれない。
(ヒル)が多くて困った。
など詳しく書かれていました。
現地の地形などに当てはめて考えてみると、まるでパズルのピースが嵌ったかのようにシックリきますねぇ。

そしてなんと、この図書館調査、これだけでは終わりませんで。
この資料に書かれていた参考文献を追って追って、辿り着いたこの本。

【大井川の周辺と農村の移り変わり】(大石孝・1996)

この本に、三津間地区にあったという“杭田”の写真が載っていたのです。

三津間の杭田
大井川の周辺と農村の移り変わり より

この田の造り、“杭たんぼ”の資料に描かれていたイラストそのままですよ。
なるほど、“杭たんぼ”=“杭田”という呼称もあるのか…。
しかしこれ、三津間地区のどのへんだろう。

とまあなんとなく気になって調べてみた“杭たんぼ”ですが、山間部の特色を生かした文化・技術だったとは正直びっくりです。



さて、【川根本町の古道】の内容に戻りましょう。
ここには、往還橋そのものについての記述もありました。

「境川の往還橋は 近代橋が出来るまで筆者の知る限りでは四度、下流から上流へと架け代へられている

これは重要な情報!
「下流から上流へ」
というキーワードがありますね。
理由までは書かれていないものの、橋の位置が変わったという裏付けは取れたと言っていいでしょう。

で、「いよいよ本題に迫ることができそうな内容が見つかった!」と喜んだわけですが…、これだけ。
年代の特定ができそうな情報は一切ありませんでした。

…というか、四度…ですか?

そんなに何度も架け替えが行われたとなれば、何代目までが往還橋で何代目からが境川橋なのでしょうか…。
そもそも「四度、架け代えられている」というのは本の発行時に架設されていた橋が5代目の橋にあたる、という解釈で良いのかな?

そういえば先の2枚の地図…。

瀬沢
川根本町の古道より

円弧上になった現在の境川橋の位置を基準にして見てください。
橋の位置・向きが違うどころか、橋に繋がる道筋もちょっと違いますね…。
これらは執筆者が違う事による誤差だと勝手に思いこんでいましたが、違う橋が描かれている可能性すら浮上してきました…。

どのような形の橋で、いつ頃、どこに架けられていたのか。
これは全てを解明するのは難しそうですねぇ…。



さてさて思っていた以上に奥が深いこの物件。
第2話では現地調査編をお送りしたいと思います。

・現行の境川橋についての情報。
・昔の往還橋の遺構は残っているか?
・橋へのアクセス道の痕跡は残っているか?

などなど、知りたい事は山のようにありますが、果たしてどんな結果が待ち受けているのでしょうか?


まあまあそんなわけで、【 境川橋 】、行ってみます!






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