大井川にある島に行きたい

神尾弁天

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追記編:第7話

第6話 冷たい風に、矢竹がそよいでいる。


今回は少々、写真少なめ・字多め の内容となっております。

さてさて前回の探索により、件の島について 色々と成果はありました。
がしかし、却って疑問が増えたのもまた事実。
子供の頃『刑事コロンボ』が好きだったせいか こまかいことが気になると、夜もねむれねえ。

というわけで数週間後、全ての答えがあるであろう場所に行ってきました。
神尾から北へ約5km、高熊地区の山の中腹。

光明寺

曹洞宗 日照山 光明禅院

あの木札に書かれていた寺院に。


突然の訪問にも関わらず、ご住職夫妻がとても丁寧に応対してくださいました。
「昔の事は詳しくわかりませんが」
という前置きをされつつも、色々な話を聞くことができたので なんとかまとめてみます。



●まず、あの弁天様はいつ頃から祀られているんですか?
「最初がいつなのか まではわかりませんが、その昔、あの島がまだ神尾の一部だった頃からあったようです。」

ほうほう・・・ん?

神尾の一部?って・・・

光明寺

まさかのこちら側!
というか、第1話で出した予想図、全然ダメだな!

容易に想像がつくとおり、ここで急に川幅が狭くなっているせいで 大雨の度にここが詰まり、鉄砲水となって下流域を襲っていたそうです。
しかし江戸時代になって「このままではいかん」ということで 山を切り崩して水を通した、というお話のようです。
そしてその頃には 既に神尾の弁天様はあの場所に祀られていたので、あの島だけ残ったらしい。

「毎年8月16日には神尾地区の人達と一緒に 重い荷物背負ってあそこまで歩いていきましてね、供養をしてたんですよ。」

おお、ここでいきなり核心にせまる情報が!

●集落から河原へ降りる道がある、と?
「そうそう、集落を抜けて、ここんとこあたりから、下へ降りていく道が昔はあったんだけど、今はどうかなあ・・・。」
と、地図まで持ち出して入口の場所を教えて下さいました。

あー、じゃあ探索を終えた後に地元の方が言ってたのは(若干 言い淀んでいたのも)
今は通れるかどうかわからない その道の事だったのか、と納得。

光明寺

●弁天様の所にこの木札があったんですよ、
とあの写真を見せると、

「そうそう。以前の木像の弁天様はだいぶ古い頃からのものなので、平成6年に今の石像に換えたわけです。
その木像の方は、地蔵峠の延命地蔵さんの横に新しくお堂を建てまして、今では供養もそこでするようになりました。
何しろ、大井川の水が多いと 島までは行くこともできないのでね。」

なるほど、これで祠と石像に年代差があった理由が判明した。
“旧木像を光明院に納めた”という一文も、実際には新しいお堂に納めた、という事なのだな。

・・・

じゃなくて!
あの地蔵峠の上にあったお堂、いつも素通りしてたけど!
あそこが関係してたのか・・・いやいや関係どころか、そのものじゃないか。
どうして先に調べなかったんだ・・・。

「そういえば、祠の所に細い竹がいっぱい生えてたでしょう?」

ああ確かに、至る所に生えてましたね。

竹藪

「あれは矢竹と言ってね。その昔、小夜の中山に出るという怪物を退治するために その竹で矢を作って納めた、という言い伝えがあります。
たぶんそのお堂のところに詳しい説明文があるんじゃないかな?」



何度もお礼を言いながら、寺院を後にします。
次の目的地は当然、

地蔵峠。


新弁天堂

満開の桜の下、そのお堂は確かにありました。
何度も横を通り過ぎていたのに。
どうして気づかなかったのか。
ノボリに はっきりと“弁財天”と書いてあるのに。

周辺案内

これは隣に立っていた案内板。 しっかり“新弁天堂”と書いてあります。

そして、住職の言ったように お堂の横には由来書きがありました。


由来書き


この説明板で最初に分かったのが、島の正式な名前。

【 舟山 】

舟の形に似てるから“舟山”という、ありきたりな名前と言えばそれまでなんですが、なぜ“舟島”ではなく“舟山”なのか。
それはここが、大井川に昔からある“島”ではなく 山の一部を削ってできた元・“山”だから。
と、多少なりとも住職から話を聞いた今なら 素直に理解できます。

続いて書かれているのは、この弁天様の由来について。
[孝謙天皇が遠州 小夜の中山で蛇身鳥を退治することになり、舟山の矢竹2本を勅使に献上した。怪物を倒した後、堂宇を建てて弁財天の像を安置した。]
とのこと。
孝謙天皇(こうけんてんのう)とは、奈良時代に即位した史上6人目の女性天皇。
年代としては749年(天平勝宝元年)〜758年(天平宝字2年)となっています。



この蛇身鳥という怪物にまつわる伝説について。

小夜の中山といえば夜泣き石伝説くらいしか知らなかったのですが、いろいろ調べてみると様々な伝承があって何が何やら。
なぜこんなにも混迷を極めているかと言えば そもそもの舞台がかなり古い上に、それを元にした創作話や浄瑠璃など
いろんな派生パターンを生み出して ごちゃ混ぜになり、どれが正史か わからなくなっているからだ、と感じました。
とりあえず当サイトは大井川流域の調査がメインなので あまり深く突っ込むつもりはありませんが、
せめて物語の年代と矢についてのエピソードを見つけて裏付けをしたいところ。

一番 当てになりそうな史料と言えば『小夜中山靈鐘記』という大正6年に出版された本になりますが、これは国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。

小夜中山靈鐘記

まあ、読むことはできるんですが・・・。
文系ではない自分には 正直、難しかった!

そこで参考にさせていただいたのが、『「狭夜中山敵討」から「石言遺響」へ』(1942)鈴木俊也著 というレポート。
これはタイトルからも分かるとおり 諸々の伝説を記録したものではなく、『小夜中山靈鐘記』を原典に再構成された『狭夜中山敵討』(安永4年)という本についての、文学的な観点からの研究書です。
こちらの方が内容を分かり易く説明してくれているので、自分のような素人にも理解できるので助かります。
このレポート『「狭夜中山敵討」から「石言遺響」へ』は広島大学 学術情報リポジトリで読むことができます。
また、『狭夜中山敵討』は新日本古典籍総合データベースにて閲覧可能です。

ちなみにこの『狭夜中山敵討』という物語、このレポートでどのように評論されているかを 分かりやすく書くと、
「これは酷いね。筋書きはメチャクチャだし内容も適当。せっかく基となる本があるんだから、もう少しマシな構成にできなかったのかね。まあ子供向けの絵本みたいな文章で、大した表現もできないこんな作家には これ以上の注文は無理だな。」
だそうです。

・・・。

ん〜、一応『小夜中山靈鐘記』を原典として書かれてはいるようなので、内容がまるっきり改ざんされていない事を期待するしかない・・・かな。

でまあ早速 内容を見ていくと、まず 時代について[聖武天皇の御宇、天平の頃に]と書かれています。
聖武天皇と言えば先述の孝謙天皇の父。
天平時代は729年〜749年となり、説明板よりも1世代前のお話になっています。

そして、[蛇身鳥なる怪物が菊川に出る、という噂が都に伝わり、三位良政がその退治の為に下向する事となった]と続きます。

登場したのはこの物語の主役とも言える三位良政さんみよしまさの名前。
果たしてこの人物は何者なのか。
検索をかけても この“蛇身鳥伝説”にまつわる登場人物としてしか名前を見つけることができません。
“上杉”姓であるような情報を散見する程度でしょうか。
物語の地である菊川には 三位良政ゆかりの様々な史跡が残っているようなので、興味のある方はぜひ調べてみてください。

でまあ なんやかんやあって、[蛇身鳥が現れるが良政に射落される。]となっています。

どうやら2本の矢はここで用いられたようです。
他の方の情報でも 良政が弓の名手的な話を見かけたことはあったので、まあ間違いないかと。

これでなんとか話は繋がった・・・か?
ちょっと苦しいけど・・・。

この苦しさがどこから来ているのか考えてみたのですが。
この一連の“蛇身鳥伝説”については“神尾弁天”側からの示唆でたどり着いたわけだけど、
“蛇身鳥伝説”側から“神尾弁天の矢竹”について語られているのを一度も見た事がないから、ではないのかと。
もちろん全ての史料を調べつくしたとは到底言えないので、どこかには繋がりを示すものがあるのかもしれない。
それさえ見つかれば、最高にスッキリするのですけどね。

それにしても、あの矢竹についてのエピソードが史実だとすれば、あの竹・・・。

矢竹

あの竹は・・・。

少なくとも奈良時代からあそこに生えてた、って事?
1200年以上前だよ?!


いやまあ当然 同じ竹がずっとあるわけではないけど、根の部分は当時から生き続けている ということになるんじゃあないのか?

うーむ・・・

もっと愛でてくればよかった!



さてさて、これで矢竹については一応の目途がついたので あとは年代か。
説明板に戻ると[孝謙天皇の勅命によって勅使が派遣された]となっており 文献に書かれた聖武天皇とは1世代違っています。

これらを踏まえて このサイトでは
【聖武天皇の時代の終盤(天平末期)に怪物が誕生し、孝謙天皇の即位後まもない頃(天平勝宝初期)に噂が都に伝わって、三位良政が怪物退治に遣わされた】
と考えてみたい。

で、怪物を見事退治できたので
【舟山にお堂を建てて弁才天を祀りなさい、と勅命が下った】
となり、これらを踏まえて

神尾弁天の始まりは750年頃

と結論付けたんですがどうでしょうか?だめ?



まあまあなんとか このサイトなりに話の始まりが見えたので この後の歴史を追っていくと、
せっかく建てた弁天像もお堂も、大井川の大水・洪水で 建てては流され、の歴史を繰り返したようです。
そして この説明板の記述のみを見る限り、現在の祠は明治32年(1899)に建てられた可能性が高い、と。
その後平成6年に石像の弁天様を祀り、旧木像については地蔵峠のお堂で供養され、さらに平成20年に地蔵峠のお堂も新しく建てられた
というのが大まかな歴史になるようです。

新弁天堂




さらに事後の追加調査で、神尾弁天について詳しく書かれた本を見つけました。
『島田風土記 ふるさと 大長 伊久身』平成15年発行
ここに一連の歴史が載っていましたので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

ここでは、このサイト上で取り上げた内容の補足的な情報だけを追加したいと思います。

まず この島田風土記に書かれているのは
・神尾弁天の由来
・神尾弁天を祀っている人々の江戸〜近代史
といった内容。

このうち“神尾弁天の由来”については、金谷町神尾(現・島田市神尾)の大池氏所蔵『辨財尊天の由来・地蔵様の古文書』という手書きの1冊を基に書かれているようです。
(この古文書についても さらに元となる基本資料を昭和50年代に筆写したものだろう、と本の中で推察しています。)
これを読むと分かるのですが、新しいお堂の説明板に書かれていた内容は この古文書を書き写したもののようです。

そして“神尾弁天を祀っている人々”について書かれた中で特に目を引いたのは2点。
名称についての記事と、あのコンクリート製の階段の歴史について。

まず名称についての記事を引用すると、
『この舟山に弁財天が祀られ、古くから舟山弁財天として親しまれて来た。そして川の流れが神尾側の時は川口村で祀り、逆に川口側を流れる時は神尾村が祀っていた。昔は川の左岸は駿河国、右岸は遠江国に属していたので、別名「国替弁天」ともいわれた。』

なぜ“神尾弁天”についての伝承が対岸の伊久身地区の風土記にも載っているのかといえば、これが理由。
昔は大井川を挟んだ両地区で弁天様を祀っていたからなんですね。
そしてさらに、第1話で示した吉田初三郎の沿線図に描かれていた【國替辨天】という名称も、これが起源だったわけです。
今にして思えば、あの沿線図・・・。

よく見ると

よーーっく見ると、クリームパンみたいな形の岩の上に ちょこんと“赤い何か”が描かれています。
もしかしたらこれ、弁天堂なのかもしれませんね。今でこそ そう思えるんですが。

そして風土記には このようにも書かれています。
『舟山弁財天は駿河・遠江間の大井川の真ん中にあって、境の決まっていない場所なので、公儀の埒外にあったこと。』
つまり 川の流れによって祀る担当地区は替わるが、土地の所属が公式に変わるわけではない、と。
いやはや面白い。

次に階段について。
引用すると とても長くなってしまうので、少しだけ簡単にまとめると、

・昭和35年に完成した川口発電所により舟山も含めた周囲が危険地帯に指定され、舟山には大きな構造物が作られた。
・建設工事による発破、重機、架線などにより お参りもお祭りも できたものではなかった。
・緊急放水時の水しぶきもかかり、近寄ることもままならないため、地蔵堂と共に 峠で供養するようになった。
・昭和51年になって弁天様をちゃんと祀りたい、という機運が高まり 再三再四の交渉の結果、弁天堂の階段付け替え費用を中部電力側が出す事となった。


かなり端折りましたが、このような内容が書かれています。

現在の階段

かくして昭和52年7月、ここに階段は作られました。
やはりこの階段は、参拝者のための階段だったわけです。

さらになんとこの本には、まだ階段が立派な形を保っていたころの写真まで紹介されていました。
それがこちら。

在りし日の階段

この写真の水溜まりの位置を見ると、結局 階段までたどり着けないような・・・。
という感想は置いといて。
階段部分をよく見ると、例の鉄製の手すりは当時から上の方にだけついていたようです。
上部のコンクリートはほぼ平たくなっており、他の構造物は見えません。
では、あの埋まっていたL字鋼は?
それか、先述の“舟山には大きな構造物が作られた”というのが関係しているんでしょうか?
西端の四角構造物も謎のままです。



とまあ 結局、100%の解明とまではいきませんでしたが、一通りの納得はできたと思います。
もし興味がおありの方は、この弁天様を大切に守り続けている地元の方々に最大限の敬意を払いつつ、
ぜひ一度、こっそりと参拝してみては如何でしょうか。



名所File No.01
神尾弁天(舟山弁財天)

営業時間:行ける時だけ
所在地:静岡県島田市神尾
交通アクセス:大井川鐵道 神尾駅より 徒歩2〜3時間






調査完了。

*本稿の作成にあたって光明寺のご住職夫妻に多大なるご協力を頂きました。
*ありがとうございました!

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あ、
そういえば・・・
まだ正規の道を確認してなかった・・・。
もしかしたら・・・続く・・・かも?