大井川型吊橋への発展

柳崎橋

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第1話 大井川型吊橋をはじめて百年がたつ。


今回ご紹介する物件はこちらです。

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【 柳崎大橋(やなさきおおはし) 】

川根本町崎平柳瀬を結ぶ橋。

この場所に最初に架けられた橋は【 柳崎橋(やなさきはし) 】と呼ばれ、地元の人々の交流のみならず 東西の商圏を結ぶ重要な役割を担ってきました。

さて、明治4(1871)年に架橋許可・通船許可が下りるまで「大井川に橋がなかった」というのは多くの人が知る所。
その理由としては「軍事的な防衛のため」というのが一般的な認識かと思われますが…。
実際には井川地区に橋が架かっていたし、「大井川は橋ダメ」とはっきり書かれた御触れのようなものは確認できていないし、何なら橋がなかった川は他にもいっぱいあったわけで、現在の論調では その説の信憑性も揺らいでいるようです。

まあそのあたりの事については 他の研究書などを読んでいただくとして。
実は今回取り上げる【柳崎橋】は、橋の構造的な面において特別な存在であったようです。
ここではそんなような観点から、ちょっとだけ歴史の考察もどきをしてみたいと思います。



まず、現時点において書籍や紙資料で確認が取れている江戸時代以前〜明治期に大井川に架かっていた橋をリストアップしてみました。

大井川における明治期以前の橋

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@天正元(1573)年? 上井川刎橋(田代村〜小河内村)
A同年?      下井川刎橋(銀葉沢〜薬沢村弁天)
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B明治 9(1876)年 大井川仮橋(島田〜金谷)
C明治10(1877)年 矢口橋(六合〜初倉)
D明治12(1879)年 蓬莱橋(島田〜初倉)
E明治15(1882)年 小河内橋(元・上井川刎橋)
F明治16(1883)年 前川橋(元・下井川刎橋)
G同年       明治橋(奥泉〜谷畑)
H同年       大井川橋(島田〜金谷)
I明治19(1886)年 大間橋(朝日岳山腹)*寸又川
J明治20(1887)年 小山橋(小山〜細尾)
K同年       川根橋(沢間〜桑野山)
L明治22(1889)年 富士見橋(大井川〜吉田)
M明治29(1896)年 大沢橋(大澤〜谷畑) 
N明治30(1897)年 千代橋(千頭〜田代)
O明治41(1908)年 万世橋(堀の内〜藤川)【レポートNo.11】
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P明治42(1909)年 柳崎橋(崎平〜柳瀬)
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Q明治44(1911)年 川根大橋(千頭〜小長井)
R明治43(1910)年 上長尾橋(上長尾〜高郷)*長尾川
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とまあ、ざっとこんな感じになりました。
(全ての橋を網羅したリストを作ってみたいもんですが… 一応、今後の目標としておきます。)

ここに挙げた橋は、資料等において 存在を確認できているものだけです。
公式な記録に残っていないような山仕事用・工事用の小規模簡易吊り橋や、民間企業だけが使用していたような橋までは さすがにわかりません。
主に大井川本流、及び大きな支流に架かっていたものを取り上げています。
また架橋年は情報源によって差があるので、あくまで暫定。
地図上のマークについても おおよその位置を示しているだけです。
間違い等、お気づきの点がありましたらご教示ください。


とまあそんなわけで、ここで取り上げた橋は いずれも生活に深く関わっていた橋であると言えます。
それにしても こうやって地図上にマークをしてみると、なかなか偏った分布をしていますねぇ。
とにかく、順番に見ていきましょう。

古くからあったとされる井川地区の2本の橋@Aは、刎橋(はねばし)(参考:山梨県大月市の猿橋 〜Google検索結果〜)という珍しい形式の橋。
まず下井川刎橋についてですが、特産品のお茶の輸送や井川金山から産出されるの輸送のため、幕府直轄で維持・管理されていたとの事。
大日峠付近に再現されている『徳川家康お茶壺屋敷跡』(〜 GoogleMap 〜)などは、それらに関連した施設だと思われます。
次に上流側の上井川刎橋ですが、これは民間の架設ながら【黙認】という扱いだったようです。
かなり隔絶された環境でもあるため、「橋があっても影響はない」という判断もあったのでしょう。
後に どちらの刎橋も 架橋位置を変えながら鉄線橋EFとなり、最終的には井川ダム湖に没することになります。

そして時代は明治へ。
正式に大井川への架橋・通船が認められます。
むしろ、「いつまで徒歩渡し(かちわたし)などという前時代的な方法を取っているんだ!!」といった厳しい見方をされたようです。
明治9(1876)年大井川仮橋Bを皮切りに いくつかの橋(CDHL)が架設されますが、いずれも木橋
D蓬莱橋( 〜Google検索結果 〜)を想像して頂ければ分かり易いかと思いますが、これは川中に何本も橋脚を立て、そこに渡された木の踏板の上を歩いて渡るものです。
大井川は頻繁に川の流れが変わるため渡船という交通手段が安定せず、木橋のような恒常的な交通路は多くの人に望まれていました。
しかし大雨で木製の橋脚が流されるたびに修復していたため、橋の維持には多額の予算が必要でした。
この維持費を少しでも賄う事が、通行料を徴収する賃取橋(ちんとりばし)という方式を採用した大きな理由の一つであったようです。

さてさて その後は上流部での架橋が増えるわけですが、それらは旧本川根町奥泉地区から旧中川根町あたりまでに集中しています。
旧川根町あたりから かなり長い区間を空けて、現・島田市の向谷地区(国道一号バイパスのあたり)まで橋はありません。
(注:R上長尾橋は支流の長尾川に架かる橋で、大井川本流ではありません)

これら上流部の橋は全て吊橋でした。(吊り橋、釣橋、釣り橋 など表記はいろいろありますが、ここでは『吊橋』とします。)
その理由として技術的・資金的な問題が真っ先に思い浮かぶわけですが、もう一つ、大井川ならではの理由も考えられます。
当時、大井川は木材の一大産出地であり その木材は流送(『川狩り』と呼ぶ)により搬出されていました。
他の河川では木材を筏状に組み上げて流す『筏流し』という方式が多かった中、大井川では木材をバラバラに流す『管流し』で流送していました。
『管流し』は山間部の急流や 筏が通れないような場所で用いられる方式でしたが、大井川においては『筏』は『舟の一種』とされ、舟渡しと同様に禁止されていたようです。
当然、明治の『通船許可』によって『筏流し』も解禁されたわけですが、馴染みのある『管流し』に取って代わる事はありませんでした。
この管流しによって 大井川奥地から 木材の集積地である向谷(むくや)地区(現在の国道一号線バイパス付近)までは 川一面が木材で覆われる日もあり、木橋を架ける(川中に橋脚を建てる)のは現実的ではなかったはず。
吊橋を選択したのには、こういった大井川ならではの理由も関係しているのだろうと思うのです。

向谷水門付近
向谷水門付近の様子

そして旧中川根町の中頃あたりより下流域になると、今度は川幅が広すぎることが問題となりました。
そのような長大支間の吊橋を架けることが技術的に難しかった事、必然的に 莫大な資金を必要とした事などです。
費用対効果を考えると、架橋に至らなかったのも理解できます。

さらに下って向谷地区を越えると、先に書いた木橋群(CDHL)が連なります。
大井川を流れてきた木材は向谷地区で陸揚げされ、一部は陸送、またその他は運河を通して焼津まで流送し、そこから各地へ出荷されたそうです。
このため、向谷地区より下流域では 川中に橋脚をいくつも並べる木橋を架けることができたのでしょう。

とまあこんな感じで、明治期以前の橋が 図のような分布になった理由を色々考えてみました。

この後、大正・昭和にかけてコンクリートを使用した架橋技術が発達したこと、
大井川鉄道の開通や大量のダムの建設により木材の流送が減少していったこと、
自動車の普及により高規格な交通路が求められたこと等の理由により、吊橋からコンクリート橋へと変遷していくわけですが それはまたの機会に…。



さてさて一口に吊橋と言っても 構成の違いなど様々な特徴があるわけですが、ここ大井川ではどうだったのか?
まず上記の表中にある 紫文字で示したものが、旧来よりある【鉄線吊橋】に分類されるものです。
これまでレポートしてきた中で言えば、FileNo.11【万世橋】は初代が明治41年架橋であり、これに当たります。

万世橋付近
中川根町史より


ルーツを辿ると、横浜の吉田橋嵩上げ工事(明治6(1873)年3月)の際に架けられた 仮設の人道橋がベースにあるようです。
この鉄線橋の技術を井川村の大工が持ち帰り、徐々に伝わっていったのが始まりとのこと。

どんな橋なのか具体的に見てみると

大井川における明治期以前の鉄線橋


こんな感じ。
ただし この図はあくまで一般的なものであり、場所・年代によって細かな差があります。
例えば防振線・斜張線などは、ごく一部の橋にしかなかったようです。

【我が国における明治期の近代的木造吊橋の展開(その6) −大井川水系における人道橋の変遷− 土木史研究 講演集 Vol.28より】(山根 巌・2008年)では、こう書かれています。
「〜略〜 細い鉄線を小間隔で多数根台(橋台)間に張り渡し、横梁で連結して床組兼主構造とし、厚板を踏み板とした的床版型の橋が鉄線橋である。」

既にこの時点で「大井川型」の原型らしき特徴を備えてはいますが、この鉄線吊橋、ご想像のとおり 揺れる。
とにかく揺れる。


まだまだ技術的に洗練されていない構造だったという事なのでしょう。
初期こそ長距離のものも存在したようですが、後期には比較的 短距離な場所への架設にとどまりました。



もっと安全に渡れる吊橋ができないものか…、という流れになるのは当然の話。
果たしてどんな出来事があったのか詳細は不明ですが、とにかく遂に 明治42(1909)年、従来の鉄線橋を改良した新型が誕生しました。
それが今回取り上げる【柳崎橋】なのです。

大井川型鉄線吊橋

「一方長支間の釣橋ではサグが大きいため低い門型塔柱を設けて、前記鉄線床組を釣上げた釣橋が鉄線釣橋と呼ばれている。1909(明治42)年上川根村の大井川に架設された 柳崎橋 が最初で、以後振動も少なく安定しているので、鉄線釣橋へと変遷して行った。一般には鉄線釣橋は補剛構造(トラスや桁)が無い釣橋を指して呼んでいるので、大井川水系の独自の的線床組を使用した鉄線釣橋は「大井川型鉄線釣橋」と呼ぶ事にする。」(同上)

上の構造図は、あくまで一般的なもの。
場所・年代や橋長などによって差があります。
特に短距離のものでは、耐風索が無いパターンもあります。(例:FileNo.M02 境川吊橋

で 構造についてですが、これは従来の鉄線橋を改良し より安定させたものと言えるでしょう。
まず主索を釣り上げて 支柱の上部にかけるようにした事。
従来は親線を手摺替わりにしていたが、この手摺線を別構造にした事。
などが主な変更点として挙げられます。

この新構造を最初に取り入れた【柳崎橋】は、まさに【大井川型鉄線吊橋】の先駆けとも言える存在。
これより後は【大井川型】の構造を採用した吊橋が多くなり、さらに改良・発展を続けていく事となるのです。

とまあ、そんなわけで。

次回は 現地調査編!!





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今回の記事作成においては、以下の資料を参考とさせて頂きました。
厚くお礼申し上げます!

我が国における明治期の近代的木造吊橋の展開(その6)−大井川水系における人道橋の変遷−土木史研究 講演集 Vol.28(山根 巌・平成20年)
結びつなぐ、大井川の吊橋(山本洋子/海野泰一・令和5年)
【関東から行く】絶景吊橋 GUIDE BOOK(大嶽雅博・令和5年)
本川根町史 通史編3 近現代(本川根町史 編さん委員会・平成15年)
大井川物語(武市光章・昭和42年)
川根本町の古道(中川根 町史研究会・平成29年)
中川根町史 近現代通史編(中川根町史編さん委員会・平成18年)