大井川型吊橋への発展

柳崎橋

TOP
第1話 第2話 第3話 第4話 第5話



第4話 吊橋2代目になりました。


前話の続き。

柳崎橋
現在地

と、ゴールへ辿り着く その前に。
もう少し、歴史を掘り下げる必要があります。

実は、今この目の前にあるコンクリート製の主塔ですが…。
厳密に言うなら【初代】柳崎橋のものではない。
…と思う。
おそらくですが、年代的に考えて【初代】の吊橋は木製の主塔だった可能性が高い。
つまり、今は もう残っていない。
今さらですけど。

ではこのコンクリート製の主塔は何なのか?
その問いに対する答えは、こちらの写真にあります。

柳崎橋 Click!
ふるさと本川根 目で見るふるさと百年史 より

【昭和30年ごろの第一代柳崎吊橋と大井川鉄道の鉄橋】と題された一枚です。
(今のところ、旧世代の柳崎橋の写真は この一枚しか確認できていません。)
この次の代に架けられるコンクリート桁橋(次話以降にて)昭和34(1959)年の竣工なので、キャプションにある「昭和30年ごろ」という情報が正しければ、上の写真は まさに柳崎橋の最後期の姿となります。

で。
どうやら田代地区から崎平方面を向いて撮影したもののようですが、拡大して見たところ、これは補剛吊橋(床組に補剛材を設置することにより橋の剛性を高めたもの)ではあるまいか…?
何より、橋の幅いっぱいに踏板(床板)が広がっているような?!
人が徒歩で渡る事を目的とした鉄線吊橋に対し(自転車や小型バイクで渡る強者もいたようですが)、一般的に補剛吊橋は荷車などの軽車両の通行を想定して架設されるものです。

いつも参考にさせて頂いている【結びつなぐ、大井川の吊橋】(山本洋子・海野泰一/令和5年)には、こんなエピソードが載っていました。
『昔を知る柳瀬の方によると「往診に来たお医者さんが、当時地域で初の自家用車であるオースチンで柳崎橋を渡ると、吊橋だから非常にたわんだのを印象深く覚えています。」自動車が通るくらいですから、明治の吊橋とは異なる二〜三代目かと思いますが、いずれにしろ吊橋はどこでも地域診療を担う命綱です。』

そう、柳崎橋は 自動車が渡れる橋だった!

確かに上の写真で見る限り、自動車でも通れそうな規格のようではありますが…。
しかし明治42(1909)年に架けられたという【初代柳崎橋】の構造は、参考にしているレポートでも言及されているように大井川型鉄線吊橋であったことが分かっています。
しかも時代的に考えて、主塔は木製であった可能性が高い。
とても自動車が渡れる代物ではありません。

とすれば、ある時期に高規格な補剛吊橋に架け替えられたと考えるのが自然です。
しかも構造的にここまで大規模な変化をしたのならば、「代替わりした」と言っていいでしょう。
つまり、今 目の前にあるコンクリート製の主塔は 【2代目柳崎橋】のものだと当サイトでは考えます。

ただ この場合、初代橋は2代目橋と同じ場所にあったのか?という根本的なところが揺らいでしまうわけですが…上の写真で “第一代” 柳崎吊橋 と謳っている事から、同じ場所で架け替えられた可能性は高いでしょう。

とまあ 思いつくままに色々と書いてみましたが、まだまだ情報が少ないと言わざるを得ません。
とにかく、現時点で判明している情報を駆使して もう少し推測を広げてみようと思います。

柳崎橋 Click!
国土地理院地図 航空写真 より

これは、昭和23(1948)年に撮影された航空写真。
柳崎橋と、そこに至る連絡道がハッキリと写っています。
解像度が良くないので断言はできませんが、おそらく既に2代目橋になった後でしょう。
鉄線吊橋ならば もっと細々とした感じに写るはずだし、山中にある取り付け道がここまでしっかり見えるのは、広い道幅を持っているという事だからです。
また、大井川鐵道の鉄橋は現在と変わっていないことから、柳瀬側(東岸側)主塔は 遺構と同じ位置にあるようです。



さてさて、次に問題になるのは いつ頃、2代目の補剛吊橋に代わったのか?という点です。

ここで思い出されるのが、FileNo.3 横岡駅追記編(「大井川鐵道の建設過程におけるターンテーブルの有無」についてグダグダと書いた(しかも未完))の記事。
そちらと少し被ってしまいますが、一連の流れをまとめてみます。

5万分の1 千頭
5万分の1 千頭 より

舞台は昭和の始め。
大井川鐵道の建設当時、計画では終点を藤川に設ける予定だったものを 急遽 千頭に変更するという騒動がありました。(【本川根町史 通史編3】(本川根町史編さん委員会・2000)より)
突然の計画変更を受けて、当時の東川根村の村長は 会社社長の中村氏に宛てて懇願書を提出。
その内容は、住民の失望感や落胆ぶりをもって抗議すると同時に 見返りとして下記の点について要望するものでした。

・川根大橋を自動車通行可能な橋に架け替えてほしい。
柳瀬〜崎平間の橋(柳崎橋)も同様。
・田代地区に駅を造ってほしい。
・青部の停車場を開通後に造ってほしい。

この懇願書が提出されたのは昭和5年(1930)9月12日で、終点変更から3週間ほど後のことです。
今回取り上げる柳崎橋についての要望は、上記の2番目。
「柳崎橋を架け替えてほしい」とするものでした。

その具体的な内容については、【本川根町史 資料編4】(本川根町史編さん委員会・1998) で見る事ができます。

「上川根村崎平より本村柳瀬に通ずる釣鉄線橋の付近地点より鉄道路線の隧道口なるを以って工事中人夫の通行、その他往復頻繁等につき架設替えの必要相性じ可申、故に今回御建設の鉄橋の一端を取り広め 人車道通行の兼用橋の御計画願度候

この騒動があった当時、大井川鐵道について言えば塩郷駅開業を数日後に控え、塩郷〜青部間は工事中。
その先の青部〜藤川(終点予定地)間については、既に 測量・ルート作成・概算見積もり等 まで済んでいたはず。
その結果があまりにも酷かった事が 終点変更の一因となったからです。(断層部分や河水氾濫区域を越えなければならない難工事になる事が判明した。)

とは言え 千頭藤川のどちらに向かうにせよ、大井川を鉄橋で渡った先にある田代トンネルの掘削は必須でした。
上記の懇願書の内容は、この事をうまく利用したと言えるかもしれません。
「隧道(トンネル)工事を行う人夫や資材運搬量の増加を見越して、トンネル入口に近い所へ向かって “人・車 兼用の新しい橋” に架け替える必要がある」と説いたわけです。

この懇願の成果として、大井川鐵道側からは交通整備費の名目で会社寄付金2500円が拠出されました。
これが呼び水となり川根大橋(千頭・小長井間にかかる重要な橋。懇願書で最も重要視された項目。)の架け替え工事に着手できた、と本川根町史は綴っていますが、柳崎橋の架け替えに関しては全く書かれておらず…。
この成果が どの程度の影響を与えたのか?現時点では分かっていません。
もし この柳崎橋の架け替えが鉄道敷設に大きく貢献すると判断されていれば、昭和5(1930)年末〜昭和6(1931)年始め頃に2代目になった可能性が高く、かなりピンポイントに絞り込めます。
しかし完全に無視された場合は、もっと後年の工事となった事は想像に難くありません。
いずれにせよ、この騒動が起きた時期以前は 人間しか通れない大井川型鉄線吊橋 だった可能性が高い、と考えていいでしょう。



明治42(1909)年に架けられた初代柳崎橋は、おそらく補修老朽化による改修を何度も受けながら 2代目の補剛吊橋へとバトンタッチを果たしたはずですが、結局のところ 真相は未だ分からず。
これ以上は、新たな資料の発見待ちとなります。


さあ、そんなわけで。
次回はようやく!!

2代目 柳崎橋主塔へ!




第5話へ

第1話 第2話 第3話 第4話 第5話
TOP