大井川型吊橋への発展
柳崎橋
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第7話 何度確かめても、受け取った名刺には「川根街道」とある。
さて最後に、
3代目柳崎橋 “跡”へと向かいます。
まずは
右岸側(西岸側・崎平地区)へ。
あ、今話では
調査初日(雨天)と
補完撮影日(曇天)の写真を織り交ぜて構成していますので、ご了承ください。

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Google Map ストリートビューより
現在地
ここは現行の
柳崎大橋の袂。
ここから左(大井川上流方向)へ入っていきます。
地元の方は ご存知だと思いますが、
3代目柳崎橋は既に取り壊されており 現在では
橋台の跡だけが残されています。
現在地
この道は かつて、大井川西岸を南北に移動するための重要なルート
【川根(西)街道】と呼ばれていました。
「東海道沿線から東川根・上川根両村に結ぶ主要陸路には二路線がある。
その一つは、静岡から藁科街道に入り清沢村昼居渡、久能尾を経て洗沢峠を越え、富士城・東川根村藤川へ下り上川根村千頭に至るルート(川根東街道)である。
もう一つは東海道金谷から大井川右岸を北上し下川根村、中川根村、水川をへて上川根村千頭にいたる道(川根西街道)である。」(本川根町史 通史編3 近現代 より)

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本川根町史 通史編3 近現代 より
大井川上流域の集落が はるか遠くの
【秋葉山】や
駿府(静岡)を結ぶ要衝となり得たのは このルートあってこそでしょう。
しかしその道程は、とてもとても険しいものだったようです。
「二つの幹線は、いずれも山間の険しい箇所、また渓谷もあって車馬の利用は不可能であった。明治中ごろになっても陸上の交通事情に大きな変化はなかった。」(本川根町史 通史編3 より)
これは上で引用した部分の続きであり、時代で言えば
明治中期以前の様子を説明しています。
重要な交易路であったにもかかわらず、どうやら徒歩で通過するのが精いっぱいの規模だったようですね。
それでも当時は、
名産品(お茶・椎茸・炭など)が、
[もちこ]と呼ばれる人々や
馬の背に背負われ、街道を行き交っていました。
しかし、今 自分の立っている場所(崎平)から富沢・三ツ野を抜けて千頭に至る道、とりわけ
三ツ野〜千頭間について見てみると、現在では既に廃道化。
かつての往来どころか、寄り付く人もいないような状態となっています。
では
明治後期以降から現在までの間に、この区間はどのような変遷を経たのか?
…について調べてみたんですが…あまりに情報が少なく、何も掴めませんでした。
どうにか見つかったのが、次の書籍。
「【大井川右岸コース 千頭→下長尾・ハナヅラ峠・瀬沢】
小長井から大井川を渡り千頭に出る。ここから下流域に行く道の入口は(U1)草分観世音菩薩堂。「庚申塔 郷平安全 昭和六年十二月三十一日」の裏手を上ると旧道がある。道幅は広いところで1.5m程ある。現在の地図にも記入されているのでルートは分かりやすい。三ッ野・富沢に近づくとガレ場があり道が消失気味で、歩行困難である。(私は三分の二しか歩いていない)。(U2)最初のうちは電線巡視路になっていて近くの集落へも出る支道ともに歩きやすい。特に遺物は見当たらないが、大井川が西から北へ流れを変える所の旧道カーブには(U3)松の大木、何やら祀られていたらしい空のスペースがある。
富沢・三ツ野の舗装路の北端に、千頭からの旧道の出口(U4)がある。三ツ野・富沢の舗装路をたどり下流へ行く。」【古街道を行く】(2002・鈴木茂伸)より
(文中にあるアルファベット記号は位置を表しており、別ページ掲載の地図に 対応するポイントが描き込まれています。)
これは、著者が
川根街道を実際に辿って確かめ、その道程を記録した
【古街道を行く】という名著の一節。
まさに この失われた区間についての記述です。
これによると、
平成14(2002)年(出版年)時点では既に廃道化していた様子。
(氏の探索自体がいつ行われたのか、見落としてしまいまして…。自分の確認不足です。)
実踏には至らなかったようです。
WEB上の情報としては、
第2話でも紹介させて頂いた
山さ行がねが さんの、
「三ツ野古道」のレポートが有名でしょう。
レポート作成者の「ヨッキれん」氏は
平成27(2015)年にこのルートを完踏されており、道中で
大正7(1918)年建立のお地蔵様や
昭和11(1936)年建立の慰霊塔などを確認されています。
皆様にも ぜひ、ご覧頂きたい!
とまあ そんなわけで残念ながら、この区間の歴史について詳しく記された資料は 未だ見つけられないままです。
当時の交通事情や 人々の交流は、どのように変化していったのか?
色々と想像する事はできますが、今はまだ情報が足りず うまくまとめる事ができません…。
ただ少なくとも、今回のターゲットである
柳崎橋の存在が大きく関わっている事は間違いないでしょう。
現在地
さてさて、現代に戻りましょう。
歩き始めて数分で、不自然に右に膨らんだ場所に出ます。

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これは、道中で見つけた看板。
【林道ヒラト線】
この
ヒラトという地名、一体どこのことか?と思い調べてみました。
すると この道が西側に背負っている山林が町有林であり、その所在地が
「川根本町崎平ヒラト」であることが判明しました。
この道名はどうやら、そちらを登っていく林道を指しているようです。
ちなみにこの看板から先(富沢・三ッ野方面)へ延びる道は、
【林道富沢線】となります。
現在地
というわけで、ここが目的のポイント。
このまま直進すれば
川根本町の富沢・三ッ野地区に至りますが、今回は右手にある膨らみがターゲットなのです。

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現在地
3代目柳崎橋 右岸側橋台跡
この橋、当サイトでは
3代目柳崎橋としていますが
【崎平橋】という呼び名もあったようです。
ただ、これについては情報不足。
詳細はわかりません。
竣功は
昭和34(1959)年。
橋長は177.6m、
幅員は3.2mの
RC単純T桁橋とされています。
その狭さ故に、車両同士のすれ違いはできなかったようです。
年代的にも、ここを車で通った事のある人もいらっしゃるでしょう。

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国土地理院 航空写真より
これが、現役時代の航空写真。
昭和37(1962)年10月16日に撮影されたものです。
ご覧のように 崎平側はほぼ直角に進入していますが、柳瀬側はゆるやかなカーブを描いて無理なく進めたようですね。
この時には
2代目柳崎橋は既にありません。
落橋なのか?人の手によって撤去されたのか? 情報が欲しいところです。
大井川東岸を南北に結んできた道(現在の川根寸又峡線)も写っていますが、取付道にぶつかる形で終了。
どちらの道が より格上なのか、ハッキリとわかる格好になっています。

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国土地理院 航空写真より
カラー写真も存在します。
昭和51(1976)年の撮影。
かなり鮮明な画像で、周辺の様子も良く分かります。
2代目柳崎橋の右岸側(崎平側)主塔があったと思われる場所が、こじんまりとした森の様相を見せています。
もしかしたら、この頃には まだ主塔が残っていたのかもしれません。

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さて、観察タイムです。
かなり強引ですが、2枚の写真を合成してみました。
意外なほど当時の様相を保っていますが、途中にはフェンスが追加設置され、先端に行こうとする者を阻んでいます。
まず目を引くのは左側(大井川上流方向)の
ガードレール。
おそらく現役当時のままなのでしょうが、かなりボコボコです。
右側は少しわかりにくいですが、落ち葉の中に埋もれています。(クリック後の写真)
どうやら正常な状態ではないっぽいような…?
もしかしたら、外した後 ただ置いてあるだけなのかもしれません。
あと 写真には写っていないのですが、路面にはわずかに白線が残っていたような気も……。
ちょっと記憶があやふやで、申し訳ない。

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こちらは、すぐ横に立っていた看板。
【奥大井自然休養村ご案内】
かなりざっくりと描かれた地図。
崎平から寸又峡温泉・接岨峡温泉までを収めています。
橋を渡ろうとする車が一旦停車して 対向車の通過を待つ間、どうしても目に入ってしまう絶妙な位置取り。
良い仕事をしていますね。
設置者は
【ほんかわね自然休養村連絡協議会】
(
「ほんかわね」とは、この地域が
川根本町になる前の自治体である
「榛原郡本川根町」を指します。)
この【自然休養村】というキーワードで検索してみても、ほとんど情報が掴めず…。
管理者の住所は 現在の千頭駅前にある観光協会が入っているビルになっており、何らかの関連があるのでしょう。
Google Map ストリートビューより
現在地
次は、
対岸(東岸)に渡ってみます。
先に書いておきますが、こちら側には何も残っていません。
柳崎大橋の建設時に失われてしまいました。
唯一、当時の面影を残しているのだろうと思われる遺構がこちら。

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現在地
これが
3代目柳崎橋から続く
“道の残り” です。

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航空写真で見ると、クリック後の赤線のあたりになるはず。
奇跡的に残されたエリアですね。
白線がほんのわずか残っており、
左岸側(東岸側)で見られる唯一の遺構となっています。
また、図中には(あくまで推測ですが)緑線で川根寸又峡線、青線で国道362号線、橙線で その取付道路を描き込んでみました。
では、ここから
右岸(西岸)の橋台跡を見てみましょう。

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現在地
こんな感じに、かなりしっかりと残っていました。
もともとの岩塊をうまく利用して設えられた橋台が、当時の姿を伝えています。
さてさて、上流に架かる
川根大橋(小長井〜千頭間)が
昭和37(1962)年に幅員6mの永久橋に架け替えられました。
下流域を見ると
昭和36(1961)年に
下泉橋(下長尾〜下泉間)が、
昭和43(1968)年には
万世橋(元藤川〜徳山間)が2車線のコンクリート橋に架け替えられ、現在でも利用されています。
昭和34(1959)年になって ようやくコンクリート橋として生まれ変わり 車両の安定した往来を確保した
3代目柳崎橋ではありますが、車両同士のすれ違いができないなど 時代の要望に対して やや貧弱な規格でした。
この柳崎橋を含む 当時
一般県道 静岡犬居二俣線と呼ばれた路線は、3代目橋が架けられた同年5月に
主要地方道 静岡春野天竜線に認定。
さらに
昭和50(1975)年4月になると、
国道362号線へと昇格を果たします。
現在でも
酷道と揶揄される この路線ですが、昇格当時の険しさは現代の比ではありませんで…。
少しづつ改良を加えられ、これでも
「段違いに走りやすい道に変貌した」というのが正直なところ。
崎平〜田代間を結ぶ交通事情を改善しようという
【田代バイパス】の建設計画も その一環であり、そこには
新しい柳崎橋(現:柳崎大橋)の架橋も含まれていました。
「一方、国道362号線田代バイパスの中の、田代トンネルの貫通式が、昭和63(1988)年11月25日おこなわれた。
田代バイパス(道路改良)工事は、田代〜崎平間の道幅が狭い道路を解消するため、延長1300mのバイパスを建設しようとするもので、国・県により昭和58(1983)年度から着工され、昭和62(1987)年度までに田代地区の現道拡幅工事と大井川鉄道をまたぐ田代跨線橋が完成し、供用が開始されている。田代トンネルは道幅が狭く、落石の危険が多い田代〜柳瀬間約3000mを238mのトンネルによってショートカットしたものである。
さらに、柳瀬と崎平を結ぶ柳崎橋の起工式が昭和63(1988)年12月におこなわれ、延長209mの柳崎大橋が完成し、平成4(1992)年1月16日に開通式が行われた。従来の柳崎橋は幅員が狭く、車のすれ違いも出来なかったが、二車線の柳崎大橋の完成により、交通の便が大変良くなった。
」(本川根町史 通史編3 より)

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本川根町閉町記念誌 さようなら本川根 ありがとう本川根 より
こちらが
4代目柳崎橋 改め、
【柳崎大橋】の建設時の様子です。
ご覧のように、
3代目柳崎橋はすでに撤去されています。
写真からも分かるように、
柳崎大橋の東岸(柳瀬側)の袂は 既存の道路との連絡などのため その周囲の地形を大きく変えました。
この工事の過程で
3代目柳崎橋は使用する事ができなくなり、先行して取り壊されたようです。

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本川根町閉町記念誌 さようなら本川根 ありがとう本川根 より
こちらが
3代目柳崎橋の撤去時の写真です。
幅の狭さなど、橋の規模がよく分かりますね。
もちろん この後コンクリート塊は回収されたはずですが、…もしかしたら、橋脚の土台あたりは まだ大井川の川底に眠っていたりして…?
そして現代へ。
平成4(1992)年1月には柳崎大橋が完成。
大井川を南北に結ぶ 新たな
【川根街道】として、人々の往来を担っています。
と、まあそんな感じで。
今回の柳崎橋編はいかがだったでしょうか?
山の中に見え隠れする主塔について、気になっていた方も多いと思います。
至らぬ調査で まだまだ判明していない部分も多いですが、頭の片隅にでも入れといてもらえたら嬉しいです。
名所File No.15
柳崎橋
営業時間:年中無休
所在地:静岡県榛原郡川根本町
交通アクセス:川根本町コミュニティバス 千頭・家山線 崎平バス停より 徒歩6分