現代に続く三弦の橋

万世橋

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第3話 万世橋は如何にして大井川の賢人となりしか


いよいよ、歴史調査編をお送りしますよ。

いつものごとく長くなってしまったので、第3話・第4話の2部に分けてお届けいたします。
【万世橋】は、果たしてどのような歴史を辿って来たのか?
少しでもその謎に迫れたら良いのですが。



まずは現時点で得られている様々な情報から、暫定の年表を作ってみました。

[1] 明治41(1908)年:初代橋 架設
[?] 大正??(****)年:架け替え?
[?] 昭和??(****)年:架け替え?
[2] 昭和24(1949)年:2代目橋 竣功
[3] 昭和30(1955)年:3代目橋 竣功
[4] 昭和43(1968)年:4代目橋 竣功
[5] 昭和63(1988)年:歩道橋 完成

とまあこんな感じになったわけですが…。
少ない情報を総合して当サイトでまとめた年表なので、正確では無い事を先に書いておきます。
何にせよ、ここからはこの年表の順にまとめていきたいと思います。



と、その前に。
[?] にしてある2件について書いておきます。

[?] 大正??(****)年:架け替え?
[?] 昭和??(****)年:架け替え?

実はこの2つの項目、橋梁史年表にのみ記載されている内容で、他の資料では全く見られない内容なのです。
それも、初代万世橋の『特記事項』として付記されているだけ。
一応、その内容を引用しておくと

「大正中期は L=127、b=2.7 吊橋 無補剛 昭和初期は吊橋 無補剛 木塔」

これだけ。

まず年代についてですが、“大正中期” “昭和初期”としか書かれていません。
橋長については大正時代のもののみ記載。
しかも127mと、川幅の約半分程度しかありません。
いずれも無補剛吊橋で、木製の主塔との事ですが…。

一つの可能性として考えられるのは、初代橋が何らかの理由で落橋し、その仮橋として水の流れのある場所にだけ 短い橋を架けた、というパターン。
この近辺で川幅が127mを切るような場所はなかったはずなので。
しかし毎年のように水害をもたらす大井川において、川の中に吊橋を架けるなどあり得るだろうか?
大水で流されてしまうのを前提とした“丸太橋”のような簡易的な物ならまだしも…。

とまあ色々考えましたが、この2件については現時点での採用はしない事としました。
今後、他の史料などで裏付けができればその都度更新していきます。
一応、こんな情報もあったよ、ということで。



[1] 明治41年(1908):初代橋 架設

明治41(1908)年4月榛原郡中川根村藤川志太郡徳山村堀之内間に本格的な鉄線吊橋が架けられました。

万世橋 Click!

【初代万世橋】の誕生です。

この橋は遠江駿河を結ぶに留まらず、奥大井地方川根東街道(静岡〜洗沢峠〜千頭)に通じる、大井川中流域交通の要地に架けられた重要なもの。
そのため、横幅は二間(3.64m)、長さ一二二間(222m)という、それまでの小橋建設とは比べ物にならない程の一大事業となりました。

これよりも先に大井川に架けられた橋としては、明治30(1897)年千代橋(せんだいばし)(現:川根本町千頭・田代間)があります。
これらの橋は里道に属し 建設費用は全て地域住民が拠出していた事は既に他でも書きましたが、この千代橋万世橋もそれは同様。
資金の調達先は主に寄付金、藤川・堀之内の区費、その他村費・祝儀等であり、集めるのには相当の苦労を要したとされています。

それでは、この初代万世橋を捉えた貴重な写真をどうぞ!

万世橋付近
中川根町史より

藤川(元藤川)側から堀之内(徳山)方向を向いてのもの。
昭和3(1928)年以前に撮られた写真である事から、初代万世橋で間違いないと思われます。

先に書いたように地理的に重要視された橋であり、当時としてはかなりの高規格を誇る橋…のはず。
確かにこれを見る限り、橋自体の幅は確かに広い。
広いけど…。

踏板せっま!

おそらく板1枚分っぽいですよね。
途中でのすれ違いもできない。
構造としては主索で吊っているだけに見えるのですが、もしそうなら、これはかなり揺れたのでは…。
もしやそのせいで、踏板を広くできなかったとか?
バランスを崩すと危ないから。
この当時(明治時代後期)の標準的な吊橋って、こんな感じだったんでしょうかね?

何にせよ、見ての通り これはあくまで歩行者用の吊橋
荷車や馬車などの通行はさすがに不可能です。
物資の運搬という観点で言えば、徒歩による輸送、すなわち “持ち子” と呼ばれた人達が利用したのでしょう。

万世橋 Click!

そしてもう一枚。
こちらはなんと、昭和23(1948)年1月に米軍によって撮影されたという航空写真です。
年代からして、やはり初代万世橋のはず。
ご覧の通り、橋はしっかり架かっています。
架かってはいるんですが…。

皆さん、お気づきになりましたか?

場所、違うよね?

現在でも残っている旧橋の主塔前話参照)の位置よりも、さらに上流側のように見えます。
ここはいったいどの辺りなのか?!

というわけで、現在の衛星写真と重ねてみましょう。
基準にしたのは特徴のある例の森の形。
第2話で探索を行った森です。
で、この森の西北あたりに【八幡神社】があります。
元々は別の所にあったようですが、明治7(1874)年寺社統廃合により現地へ移転したとのこと。
つまりこの写真上で推測できる神社の位置は、現在と同位置であるはず。

万世橋 Click!

さあどうでしょうか?
さすがに角度や縮尺などを完璧に揃えられる技術はないので、あくまで目安になりますが…。

現在の写真の方にある水色の印は、旧主塔の位置。
国道362号線のルートの取り方が いやはや何とも面白い。
そして肝心の初代万世橋ですが、旧橋主塔の位置よりも さらに上流に架かっていた事がわかります!

では具体的な位置はどこなのか?

徳山側においては、町道の曲がり角あたりに位置するようですね…。
最初の現地調査の時には、軽く流す程度でしかチェックしていませんでした。
例の石垣が関係しているかも、とも思いましたが、遠目に見ても あれはモルタルを使用した練積みの石垣であり、明治時代の土工ではないでしょう。
まあ後年に補修・改修・補強などが成された可能性もありますが、関連性を見出すのは少し難しいかな…。

次に元藤川側はどこかと言えば…、どこだ?
それこそ前話で探索した森の中へ突っ込んでいるようにしか見えません。
すると気になるのは、徳山側と元藤川側では高さがかなり違っているという点。
先に紹介した写真からも分かるように 徳山側の川岸は崖のようになっており、川面からかなり高い位置に主塔がありました。
これに対して元藤川側は 川岸と言うか土手と言うか、とにかくこれより6〜7mは低かったのではないかと思うわけです。
しかし吊橋を架けるとなれば、両端の高低差は可能な限り無くしたかったはず…。

となると、ひとつ思い当たる場所が。

それは現地調査編で見つけた、少し土地が盛り上がっていた場所。
あれは明らかに人工的なものでした。
情けない事に 調査時は主塔の遺構を探すことばかりに集中していて 目線が高すぎた。
しっかり確認していなかった。
まだまだ半人前ですよ、自分。反省…。
今思えば、あの盛り上がった土地の前には邪魔するものは何もなく、なだらかに森の外へ繋がる動線が見えるような印象がありました。
空積みの石垣の上に祀られた祠も、その道筋の傍らに位置していたし…。

もしかしたらあれは、本当に初代万世橋の橋台だったのか?

これはもう一度、しっかり確認をするべきかもしれません。
もちろん 初代橋は主塔などの構成材が木だったことから、何も残ってない可能性の方が高いですが…。



[2] 昭和24年(1949):2代目橋 竣功

いよいよ、万世橋も2代目にバトンタッチとなります。
前話の現地調査編で調査した旧橋の主塔、その橋名板に刻まれていたのが この年の1月でした。

旧万世橋
中川根町史より

こちらが2代目万世橋
主塔の形、橋名板など、見覚えがありますね!

では、
なぜ架け替えられたのか?
初代橋はどうなったのか?

【中川根町史】から、この時の事について書かれていた部分を引用してみます。

「一九五〇年代に入ると、大井川鉄道貨物の運輸は急増、組合立中学生徒の通学の利用度も高くなっていた。一九四九年(昭和二四)に下泉、万世両橋は改修されてはいたが、この二橋も含め、一般に中川根・徳山両村を結ぶ橋梁は、通行車・物資運輸において不十分であり、また老朽化したものもあって、改善の必要があった。」

…こんな記述だけ。

架け替えの理由などが書かれているように錯覚しますが、よく読むと昭和24年の出来事としては「改修された」という事しか分かりません。
現実には主塔を鉄筋コンクリート製に建て替え、橋そのものが新規に架設される程の大工事だったわけですが…。
(そういえば、昭和橋も同じような扱いでした。)

ともかく、写真を見て分かるように 木塔の歩行者専用吊橋であった初代橋に比べれば雲泥の差。
一気にランクアップしてますよね。
どうやら小型自動車(オート三輪くらい?)ならば通行できたような情報も見られますが、真偽のほどは不明です。

ではこの時、初代橋はどうなっていたのでしょうか?
既に判明しているように2代目と初代は違う位置に存在したわけですから、2代目橋が完成するまでは初代橋を現役利用していた可能性が高い
2代目完成後に撤去されたのだと推測しますが、この事について書かれた資料は見つかりません。

で、改めて写真を見ると、やはり2代目下泉橋の主塔に形状が似ているなぁ、と。
大きく違う点は、塔頂サドル(塔の頂点にある、主索を固定している部分)の形状でしょうか。
2代目下泉橋が開通したのは同年4月29日ですが、当サイトの調査において、2代目下泉橋の下長尾側主塔は初代主塔を補強して再利用していたことが判明しています。
ここでもう一度、万世橋の写真を見てみましょう。

両橋の比較

町史には「一九四九年(昭和二四)に下泉、万世両橋は改修されてはいたが〜」とあります。
下泉橋は、初代橋が流失(下泉側は主塔が完全に失われ新規建設、下長尾側は初代主塔を補強して再利用、中間に主塔を新規建設)し、2代目橋を架設した事を指しているはず。
万世橋においては、主塔を近代的RC塔(鉄筋コンクリート製)として新規に建設し2代目橋を架設した、その事を指していると思われます。

両橋の比較

まず1月に万世橋、次いで4月に下泉橋が改修されました。
両橋は結構似てると思うんですけどね…。
どちらかが どちらかを参考にした、とか、何かしらの関連があったのならアツいな、と勝手に盛り上がっております。



そんなわけで、次回は歴史調査・中編を!







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