民営森林鉄道の先駆け
智者山軌道
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第10話 橋脚は深い谷底に一人で坐っていた。
今話は主に現地のレポートになります。
掲載している写真の縁取りが青ならば終点(土合)向き、橙色ならば起点(小長井)向きの振り返っての写真、と捉えてください。
レポート EP.10
全体マップはこちらから。
前話の続き。
現在地
断崖に阻まれ、再び
旧川根東街道へと敗走することになった調査員。
って、まるっきり前話の書き出しと同じだなこれ。
まずは現在地をGPSで確認する事に。
Click!
おお!!
【馬路】まで、あと少し!
第1話でも書きましたが、
【馬路】とは
智者山軌道が
第一期工事の終点として定め、
昭和5(1930)年に開通させた場所。
起点の
小長井からは
約3,320mの位置になります。
現在地
まず、これが軌道跡から撤退してきた場所。
左下にはコンクリートの基礎と共に埋め込まれた6本の鉄筋が。
おそらくは自動車向けの交通標識・看板の類が立っていたのでしょう。
こちらが
小長井方面の様子。
旧川根東街道は比較的良好な状態を見せています。
静岡方面。
「交通量の少ない山道」と言っても通用しそうですが、
廃道なんです。
では、先へ進みましょう。
再び軌道跡へ復帰するため、下を覗き込みながらの移動となります。
現在地
そう、当面の問題は
「いつ軌道跡に復帰できるのか?」という事。
街道から それらしい地形が目視できれば最良なのですが、さすがに難しいか…。
現在地を見て頂くと分かるように、ここは
すり鉢状になった緩やかな左カーブ。
ほとんどの地図には描かれていませんが、お察しのとおり ここにも沢があります。
何度も書いているようにここは廃道。
メンテナンスをされなくなった道路がどうなるかと言えば…
現在地
陥没。
って、良い写真が無かった…。
何にせよ、ここは割りと緩やかな傾斜なので容易に降りられそうです。
現在地
ここを降りながら、軌道跡への復帰を目指します。
途中で沢の上流を見上げると、こんな景色。
長い年月によって、かなり地形が変わっているようです。
沢沿いにどんどん降ります。
このまま行けば、必ずどこかで軌道跡と交差するはずなのですが…はて?
何も感じ取れないまま、かなり下まで来てしまった。
さすがにここは低すぎます。
どうやら、気付かずに通過してしまったらしい…。
Click!
現在地
まあせっかく
小長井河内川の近くまで来たので、川の風景を写真に収めてみました。
(
大きいサイズの写真はこちら。)
いやはや、
良い眺めですねぇ。
何が釣れるんでしょうかね?
現在地
さて、今度は沢を超えた位置から登りながら軌道跡への復帰を目指します。
Click!
現在地
どうやら、沢のこちら側は降りてきた方よりも傾斜が急らしく、登るのがキツイ。
と、斜面の中腹より少し高い位置に なにやらそれっぽい段差が…。
あれか?
Click!
現在地
正解!
軌道跡はこれまで同様の姿を見せてくれました。
現在地
「ならば」と振り返ってみると、それは影も形もありません。
どうやら奇跡的に、軌道跡はここから復活していたようです。
Click!
現在地
さあ、
旅の再開。
Click!
現在地
しかし再び歩き出した数秒後には、軌道跡はたちまち その路幅を狭め、やや頼りない状態に…。
現在地
「消えてしまった…」と思った地点。
対岸に見えている白い横線は
旧川根東街道のガードレール。
地図にあるように、街道も軌道跡も この先で大きな沢を越えます。
その地形に倣って
Uの字になった反対側が、ちょうど見えているわけです。
緩やかに沢へ向かって右カーブ。
現在の高度を保ちつつ巻くように進んだ先には、ここ智者山軌道跡における
数少ない遺構 が存在しました。
まず先に、その区間全体を やや引いた位置から俯瞰して見ましょう。
Click!
現在地
この後の説明が分かり易くなるように、全体にポイントを割り当ててみました。
(
大きいサイズの写真はこちら。)
この区間では
2つの沢を連続して超えていました。
まずは
沢Aから見ていきます。
Click!
沢Aの様子。
ご覧のように、沢の両側に石垣が滑らかなラインを描いて正対しています。
橋台跡。
この智者山軌道跡における、数少ない遺構の一つがここに!
奥に見えているのは
旧川根東街道。
帰路に判明した事ですが、この街道の正式な名称は
【町道小長井馬路線】と言うようです。
写真に見えている橋の名前は
【下板橋】。
そしてこの沢(沢A)の名称は、
【普通河川 下板橋沢】…であるらしい。
う〜む…なんだか取ってつけたような名前の沢だった。
なぜこれらが判明したかと言うと、下板橋の袂に
水利権について書かれた立て札があったから。
要は その事について手続きを進める上で、それまで無名だったこの小沢にも便宜上 名称が必要になった、と。
で、ここには既に【下板橋】が架かっていた。
じゃあそれで。
その結果が あの名前なのではないか?と思うわけです。
立て札が設置されたのは20年近く前の
旧本川根町時代で、劣化やら浸水やらで全てを読むことは不可能な状態でした。
まあ この辺りについては、『探索!ウラ話』の方で書くかもしれません。
ではさっそく、
橋台跡を見に行きましょうか。
ポイント1へ!
Click!
ポイント1、下板橋沢(沢A)の左岸。
起点側から延びてきた軌道跡は石垣の上を通っていますが、そこは土砂に埋もれ すでに安息角で固定されていました。
軌道跡を辿ってきたところで、これじゃあ見失うわけだ…。
Click!
下板橋沢(沢A)の中から橋台跡を眺める。
しっかり原型を留めており、状態は良いです。
いやはや、ここまで頑張って歩いてきた甲斐があるというもの。
Click!
ポイント2、下板橋沢(沢A)の右岸。
一方で こちらの橋台跡は状態が悪く、
「現役時の面影は薄い」と言わざるを得ません。
こちらもまた、
下板橋沢(沢A)の中から眺めてみます。
なんだかここからだと、コンクリートによる裏込めがされていない ただの野面積みのように見えるわけですが…。
そんなハズはない。
Click!
現在地
こちらの写真は
沢Aの上流から軌道跡を眺めたもの。
やはり右岸側橋台の石垣にはコンクリートは使われていないように見えますが…。
まあ要するに、現在見えている部分は
石垣橋台の内部なわけです。
もともとの橋台の最先端、つまり沢に面していた部分は既に崩壊してしまった、という状況。
両方とも、奇麗に残っている状態で見たかった…残念。
Click!
現在地
さて、今度は
ポイント2(右岸側橋台)の上から
>左岸側を望んでみます。
緩やかなカーブを描いてそのまま橋台に繋がって行くこのライン。
実に美しいですねぇ。
…で、
本題はここから。
既に気付いた方もおられるかも知れませんが、ここまでの写真にチラホラと写っていた
あるものについて。
これは、事前調査で目を通した どの資料でも言及されていませんでした。
え、
もしかして新発見とか?!
と思ったりもしましたが…。
GoogleMapのストリートビューに
amehata F.氏が投稿していた写真にも、バッチリと写っていましたとさ。
まあせっかくなのでね、もう少し引っ張ってみようか。
実は、位置関係なども含めて 最も分かり易く写っていたのが2つ上の写真です。
Click!
現在地
沢Aの上流から眺めた一枚。
クリックすると、赤印が表示されます。
ブツはその中に。
何だか、わかりますか?
というわけで、今回の調査で発見したのがこちら!
Click!
智者山軌道、下板橋沢の橋脚跡!
Click!
夢じゃないよな?これ。
こんなブツが残っているとは!
現役を退いてから
約70年。
山奥の小さな沢の中で、ずっと踏ん張っていたのだ。コイツは。
それでは早速、
観察といきましょうか。
まずコンクリート製の台座に
3本の柱が縦に埋め込まれています。
それらを2本の木材で両側から挟み込み、貫通穴でボルト止めしてあるのが分かります。
Click!
縦の柱は沢の水と土砂に洗われ続けており、先端の丸さがその年月の長さを物語っています。
Click!
横木は痩せ細り、容易く折れそうな状態。
よくぞ
今日までもってくれたものです。
Click!
メジャーによる測定値。
3本の縦柱のうち両側の2本は内側に向かって斜めになっていたはずなので、路盤は1700mmよりも狭かったと思われます。
Click!
橋脚の形を想像してみました。
資料が残されていない以上、妄想でしかないのですが…。
実際は斜めに
“すじかい” があったはずですが、軌道の種類や地方によって構造が違うため、あえて描きませんでした。
参考になりそうな資料と言えば 起点の大井川桟橋の写真くらいのものですが…う〜ん。
Click!
こちらが、先ほどの沢上流からの想像図。
で、こうやって見て感じる事ですが、
「径間長が短い。」
1径間が目測で
約1.5m位あり、
沢幅は3m位の計算になります。(ちゃんと実測しとくんだった…)
状況から考えて
木橋だった可能性が高いので 径間が狭いのは当然として…もしかして…。
「ここまで実踏してきた沢の中にも、橋脚跡が残っていた可能性があるんだろうか?」
もちろん当時と比べて地形も変わっているし 沢の幅など想像もつかないのですが、ここと同規模の沢なら いくつかあったんじゃないか?と思うわけです。
でもまあ、さすがに新発見は難しいか…。
さあ、
旅の再開。
お次は
沢2の様子。
現在地
こちらは
下板橋沢(沢1)と違って、
旧川根東街道は橋で越えていません。
もしかしたら、軌道の現役当時にはこの沢は存在しなかった可能性もあります。
Click!
現在地
ポイント2から
ポイント3を見る。
クリック後の写真に予想ラインを乗せてみましたが…。
実のところ、どうにも土地の高さが合ってない気がする。
今いる
ポイント2は、土砂が積み重なって かなり高くなってしまっているのでは?と思います。
Click!
所々に石垣があるのは分かりますが、高さもバラバラだし どうにもスムーズなライン取りが想像できません。
Click!
現在地
さて、
智者山軌道の貴重な遺構を存分に堪能したので先へ進みます。
一歩踏み出せば、そこはいつもの軌道跡。
Click!
現在地
と言っても、調査を始めたばかりの頃の軌道跡に比べれば やはり状態は悪くなっています。
Click!
現在地
落石が多く、灌木も生え放題。
軌道跡そのものが土砂によって埋まり、その姿も鮮明ではありません。
Click!
現在地
それでも傾斜の緩やかな区間だけは外部の影響が少ないため、綺麗な状態で残っている事が多いです。
今 歩いているルートが正しいのかどうか、確認する助けになります。
Click!
現在地
何にせよ、廃止から長い年月を経た現在でもこの位の状態を保っているのだから、自分のような探索者にとっては有難い限りです。
Click!
現在地
さあ、徐々に何でもない只の山道のようになってきましたよ。
Click!
現在地
ふと右手を見ると、一気に
旧川根東街道が迫ってきました。
単純に距離が近づいただけでなく、その比高も縮まりつつあるようです。
Click!
現在地
するとやや前方に、少し開けた場所が見えてきました。
あれはもしや…?!
Click!
現在地
遂に到着!
馬路
智者山軌道における第一期工事の終点。
昭和5(1930)年に開通。
起点から
約3,320m。
ここで、白井氏の調査報告を引用してみましょう。
「道路の馬路橋手前左側に自動車事故の地蔵尊があり、ここから川へ下ると軌道馬路橋の橋台に出る。」(産業考古学 Vol.112 智者山森林軌道の調査報告/産業考古学会・2004)より)
論文には、白井氏本人が この橋台上にて調査している写真が貼付されていました。
地蔵尊については後で確認するとして、まずは
【軌道 馬路橋】の橋台を確認しましょう。
Click!
現在地
これが
左岸 橋台跡!
先の
下板橋沢と同様に、コンクリート製ではなく石垣が用いられています。
Click!
下を流れる
小長井河内川との比高は かなりのものです。
論文によれば、ここから対岸までは
上路アーチ鉄橋で渡っていたらしい。
一応 2枚上の写真に想像図を乗せてみましたが、当時の写真や資料が無いので妄想するしかありません。
軌道の現役当時は、紅葉の時期などは かなりの絶景を誇った橋だった事でしょう。
しかしこの橋もまた、軌道の終了と同時に全て売却されたようです。
今では この橋台だけが、当時の様子を伝える唯一の遺構となってしまいました。
現在地
お次は
馬路駅そのものに注目してみます。
全線の中間地点に当たる この
馬路では、この先の
第2次工事と同時に木材の積み込みが行われた 言わば
集材場所でもありました。
お世辞にも広いとは言えない場所…。
当時の様子はどんな感じだったのでしょうか。
主に木馬による集材が行われていたようですが、結果的に難工事の連続となった第2次工事の
予算確保と
将来の収益性を確実視できる位の事業規模ではあったはずです。
さてさて、橋が無くなっている以上は 対岸へ行くのに
旧川根東街道を通っていくありません。
というわけで、軌道跡のすぐ上に迫っている街道へ。
現在地
落ち葉や木々に埋もれつつありますが、道路そのものの状態は悪くない…ように見えます。
今にもカーブの向こうから、軽トラが走ってきそう。
現在地
そしてこちらが
交通安全祈願の地蔵尊。
先程まで探索していた
【馬路】跡が、後ろに見えています。
自分は果たして、どのくらいぶりの来訪者であろうか…。
今では通りすがる者もいないであろう このお地蔵様に、せめてもの手向けとして水を供え、旅の無事を祈る。
現在地
そしてこの先は、
智者山軌道の第2期工事区間を辿る旅。
まだまだ道程は長いのだ。
ただし先に白状してしまうと、ここからの区間は あまり紹介できるような調査結果にはならなかった…。
果たして終点の
【土合】を発見することはできたのか?
智者山軌道の調査行も、あと数話で決着。
終演まで お付き合い頂ければ幸いです。
そんな感じで、
次話へ!
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第4話
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第8話
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探索!ウラ話
今回は
旧川根東街道(小長井〜連絡道までの区間)について。
街道上で撮った写真の中から、印象に残ったものを何枚かピックアップして載せてみたいと思います。
まずはこちら。
廃道化し始めた…といった感じの一枚。
陥没、倒木。
崩壊は、こんなふうに進んでいくのでしょう。
ところで、この写真の奥のほうに
“あるもの”が写っています。
それがこちら。
2本の枕木。
なぜこんな所に?!
軌間(左右レールの頭部内面間の最短距離)を実際に測らなかったのが悔やまれますが、とりあえず智者山軌道とは無関係のものでしょう。
もっとも、レールが無いこの状態では軌間を測りようも無いわけですが、雰囲気だけでも分かればね。
おそらくは何かの作業用とか部材として持ち込まれた物だと思います。
Click!
さて、このように街道上には 今でも
交通標識が残されたままになっていますが、拡大写真で分かるように
【静岡県】のシールが貼られています。
しかし本編でも書いたように、ここは
旧本川根町時代には
【町道小長井馬路線】だったはず。
さらには(かなり位置が離れていましたが)
【靜岡県】の用地杭を目撃もしました。
一体、この道はどこの管轄なのか?
以下、自分の予想。
智者山軌道の代替輸送路として開削された道路の一部分が 最初は
県道として整備され、
現在の川根東街道(国道362号)が開通した時に こちらの旧道は
町道に格下げされた、って説。どうでしょうか?
このあたりについても、機会があれば調べてみたいと思います。
*** 追記 ***
結局のところ、これ↑は的外れもいいとこでした。
実際はもっと複雑。
なんとか機会を作ってまとめてみたいところですが…。
*** 追記終わり ***
Click!
こちらはどうやら
電信柱。
表示されている内容をどう読み解けば良いのか自分には分かりませんが…。
てかこれ、今も稼働中なのか…?
緑の絨毯。
実に鮮やかでした。
道路一面がコケに覆われている状態など、なかなか見られませんからね。
ついつい撮ってしまいました。
厚く積もった土砂の量が凄い。
道路が露出している部分は、沢から溢れ出た雨水に洗われた跡。
もともとは写真中央の石垣に沢の水を通す暗渠があるわけですが、頻繁に許容値を越えるらしく既に崩壊が始まっています。
いずれ道路が陥没するか、完全に土砂に埋まるか…。
街道の一部には、こんなふうに姿を変えていく区間もあるのです。