民営森林鉄道の先駆け
智者山軌道
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第11話 十票入った。黒板に「8」の字が二つ、縦に並ぶ。
今話は主に現地のレポートになります。
掲載している写真の縁取りが青ならば終点(土合)向き、橙色ならば起点(小長井)向きの振り返っての写真、と捉えてください。
レポート EP.11
全体マップはこちらから。
前話の続き。
の前に。
訂正しなければならない事があります。
今回の智者山軌道に並走している自動車道について、記事中でずっと
『静岡街道』あるいは
『旧静岡街道』と表記してきましたが、正しくは
『川根街道』になるようです。
大雑把ではありますが、大井川周辺の街道を描き込んでみました。
で、この
『川根街道』をさらに詳しく分類すると、
静岡市葵区黒俣にある
久能尾地区から
川根本町洗沢・富士城を経て
小長井へ至るルートを
川根東街道。
島田市金谷から
同市家山、川根本町上長尾・千頭を経て
井川まで結ぶ道(あるいは、島田から大井川東岸を通って小長井→檜尾までを結ぶ道)を
川根西街道と呼称するのが一般的との事。
また、
洗沢〜梅地間が
梅地街道とされていますが、これを
静岡街道と呼ぶ場合もあるようです。
誤った情報を掲載してしまい、申し訳ありません。
他のページについても、順次訂正していきます。
参考資料:【定本 静岡県の街道】(若林淳之・郷土出版社 1990)
現在地
さて、いよいよこの旅も
第2期工事区間の調査へと移行です。
まずは
旧川根東街道を通って、川の反対側へ行かなければなりません。
現在地
下を覗き込むと、ご覧のとおり。
流れに侵食され、険しいゴルジュが形成されています。
こりゃすげえ。
と、すぐに ここを渡る橋が見えてきました。
現在地
【 馬 路 橋 】
Click!
どちらの写真も、小長井側の橋名板です。
(左が下流側、右が上流側)
昭和32(1957)年10月竣功。
これはそのまま、旧川根東街道が自動車道として改修された時期と考えても良いのでしょうか。
Click!
これが静岡側の橋名板。
(左が上流側、右が下流側)
これまたカッコいいですねぇ。
下流側は残念ながら破損していました。
おそらく、対角の物と同様に竣功日が書かれていたはずですが…。
ちなみに ここから遥か上流、現行の 川根東街道(国道362号)上に架けられた橋は、
【 馬路大橋 】と名付けられています。
Click!
現在地
橋の袂には、こんな看板がありました。
一級河川 小長井河内川 起点
となれば、こちらが
[ 本流 ] ということですかね?
軌道跡のすぐ下で合流してくる支流も、地図上では同じ「小長井河内川」と表記されています。
さて、振り返って 橋と街道を眺めてみます。
現在地
長く続く石垣の量が、ハンパじゃない。
当時、この街道がどれほどの重要度を持って整備されていったのか伺い知れます。
橋の上に戻って、こちらが川の上流の眺め。
どこまでも深い峡谷が続いています。
(
大きいサイズの写真はこちら。)
橋を越えてすぐの場所にはこれが
Click!
現在地
大日如来坐像
工事の無事を祈って建てられたのでしょうか?
大日如来といえば、密教における最高位の仏様。
結んでいる印相(手の組み方)で
金剛界の大日如来なのか(智拳印を結ぶ)、
胎蔵界の大日如来なのか(法界定印を結ぶ)がわかるのですが、そのどちらでもない
合掌印を結んでらっしゃいます。
ま、こまけぇ事は気にすんなよ!ってとこですかね。
現在地
さて、先へ進みましょう。
まずは
軌道馬路橋の右岸橋台を確認したいところ。
なんとか下に降りて、軌道跡を辿る必要があります。
現在地
街道が大きくカーブしている地点。
ここは比較的緩やかなので降りられそう。
見ての通り、杖代わりの木が数本置いてありました。
登山者がこんな所を通るのか…?
Click!
下を覗き込むと それっぽい
平場のようなものを発見。
さらに足元には、下へ向かって行く
徒歩道らしきものが なんとなく見えています。
これを辿ってみましょう。
Click!
現在地
で、右上から降りてきたわけですが…。
???
ハテナマークが飛び交います。
交差点か?ここは。
軌道跡っぽい道筋があるにはあるが…。
何にせよ、まずは起点方向へ戻って 橋台跡を確認するのが最善手のようです。
Click!
現在地
地図を見る限りは、橋からそう遠くない地点のはず。
Click!
現在地
あれ…?
なんだか、
前方の景色が怪しい。
まるでストンと切れ落ちているかのような…。
あそこが橋台跡なのか?!
Click!
現在地
先端まで来た!
…が、何かがおかしい。
橋台跡にしては、角度的に対岸を向いていないじゃあないか。
いやいやいや・・・、
そりゃないぜ…。
土砂崩れによって、ごっそり無くなってる…。
一応 周囲を確認してみるも、左岸側にあったような明確な石垣の橋台というものは見当たらない。
ただポジティブに考えるならば、地図的にはもっと戻った位置に橋台があるはずなので この土砂崩れには巻き込まれていない可能性が高い。
と言うか、
そうであってほしい。
結局のところ、今回は
「終点の現地確認」という最大の目標を優先するため、街道を戻っての橋台跡探索は行いませんでした。
再訪して確認するかどうかは…また考えよう…。
Click!
現在地
で、先程 降りてきた地点まで戻りました。
5枚上の、
【?】マークでいっぱいになった地点。
実は この先の区間は、智者山軌道を辿る者にとっては できる限り
踏破を目指したいエリアにあたります。
その理由は白井氏のレポートに書かれていた この記述。
「P11 : 馬路橋は上路アーチ鉄橋でそのすぐ奥に名物の8の字カーブがあり、切り取と桟橋の難工事であった。8の字は通称で実際はR=10m位と推定される急なSカーブであり、貨車が脱線することもあって建設、運転上の難所であったが最後まで大事故はなかった。」
「P13 : これより奥日掛林道へ入り間もなく東側の橋台へ降り、8の字カーブ跡を歩くことができる。」(産業考古学 Vol.112 智者山森林軌道の調査報告/産業考古学会・2004)より)
そう、
第1話で取り上げた地図にも描かれているとおり、ここは
智者山軌道名物の 8の字(S字)カーブ入り口に当たるはずなのです。
なんとか踏破して、全容を解明したい。
でまあ こんなにハッキリと
ランドマーク的な書かれ方をしているので
「容易く見つかるだろう」などと軽く考えていたわけですが…。
現実は甘くなかった。
そもそも橋台跡の視認をすることができていないので、
「自分が今立っている場所が軌道跡である」という確証が持てない状態。
「ここまで辿ってきた。」という事実はけっこう重要なのだなぁ、と今更ながら実感です。(途中途中で踏破できてない区間もあったけど…)
他に手掛かりは無いのか?と言えば
「石垣による擁壁」が挙げられるわけですが、周りを見渡せば 明らかに人の手が加わったと思われる石積みの跡などがそこら中に散在しており、どれがどれやら。
さらには
道らしきスジが何本も交錯しており、お手上げ状態となってしまいました。
話は少し逸れますが、
『軌道跡を見失う・辿れなくなる』パターンについて考えてみます。
自分は
「山さ行がねが」という廃道・廃線の調査をメインとするサイトのファンである事を公言してきました。
サイト制作者の平沼氏は、軌道跡や廃道を途中で辿れなくなる
『よくある2つのパターン』について、こう書かれていました。
まず一つは
【埋もれ】
Click!
第10話より
上部から流れ込んだ土砂などによって調査対象が埋まってしまったパターン。
道はまだ(一応)存在しているわけだから 状況としてはマシな部類に入ると言えるでしょう。
踏破できる可能性も、低くはありません。
もう一つは
【欠け】
Click!
第9話より
調査対象の一部区間が、土砂崩れなどによって完全に欠損した状態。
辿るべき道自体が永遠に失われ、誰一人として 二度とそこを歩くことができない『道の終わり』とも言えます。
調査行においては 正規のルートが分からなくなる上に、突破するのに非常に苦労する厄介な状況となる事が多いです。
そして今回、自分は
第3のパターンによって道跡をロストする事態に陥っていました。
そのパターンに勝手に名前を付けさせてもらえるなら、
【紛れ】
Click!
おいおい。
Click!
おいおいおい。
この写真は、「もしかしたら ここが軌道跡じゃあないか…?」と感じた平場を とりあえず進んでみた時のものです。
で、
紛れとは、このように放置された
間伐材が山肌いっぱいに散在し、ルートを辿るのが困難な状況を指しています。
ただし これだけなら、丸太をそのまま乗り越えたり
(危険だし、体力を消費する)
かなり迂回する
(見失う確率が上がるし、何度も登り降りを繰り返すため めちゃくちゃ体力を消費する)
など、進行のペースこそ落ちるものの、辿っていくのは不可能ではありません。
現に、この平場の行く末も辿ることができています。
Click!
行き止まりだったけど。
「紛れ」のパターンにおいて最高に厄介な状況となるのは、散在する間伐材に
これ↓が加わった時。
Click!
現在地
作業道。
これは調査4日目に撮影した写真。
とりあえず『作業道』と書いてはみたものの、そもそもこれは何なんだ。
本当に間伐の為の作業道なのか?
例えば小型の重機を入れるための一時的な道だとか?
とにかく、
軌道跡と見紛うサイズの平場が縦横無尽に走っていたのです。
Click!
これにはまいった…。
俯瞰して大まかな線形を想定しようにも、今度は間伐材が一面を覆い隠してしまって 何が何やら…。
既に書いた通り、ここは
『8字カーブの入口から最初のヘアピンカーブが始まるまで』の重要な、それでいて
『通常とは違う特殊なライン取り』をしているであろう地点。
順に辿っていけない以上は、手も足も出ないわけで…。
いやはや、前もって詳細な予習をしてくるんだった、と思ったところで後の祭り。
時間も惜しい。
この区間の解明もまた、宿題として残すはめになってしまいました。
現在地
惨敗。
気を取り直して、次の区間の探索へ移ります。
終点
『土合』に辿り着く事が、この調査の最大の目標である事を忘れてはいけません。
モヤモヤとした気分のまま、
旧川根東街道へと戻ります。
少し進んだ先の あのカーブを越えれば…。
Click!
現在地
見えた。
あれが
【奥日掛林道】の入口。
白井氏の論文には、
「1955年には(略)軌道を廃止することとし、馬路の鉄橋を除くすべてを撤去、売却した。(略)しかし林業は続き、馬路より先は並行道がなかったので林道奥日掛線が作られたが、近年の木材生産はごく僅かとなっている。」(産業考古学 Vol.112 智者山森林軌道の調査報告/産業考古学会・2004)より)
と書かれています。
つまりは
智者山軌道のトラック輸送用代替路線としてこの林道が作られたわけですね。
(ちなみに、馬路の鉄橋がいつ廃橋となったのか は書かれていません。)
それにしても、このヘアピンカーブは…
急勾配だな!!
車同士のすれ違いも、かなり怖かったのでは?
(
大きいサイズの写真はこちら。)
Click!
現在地
遂に分岐点に辿り着きました。
ここを直進すれば現行の川根東街道に合流し、静岡へ。
左折して林道に入れば、智者山の麓へと向かっていきます。
今回の目的地である
智者山軌道の終着地【土合】は、ここから約2km程進んだ位置になるはず。
何としても軌道跡に復帰しなければ。
ここからは、奥日掛林道を往く。
さてさて、今回のレポートにおいて かなり重要なポイントであるはずの
8の字カーブ。
現地では ほぼ何も掴めず逃げ帰ってきたわけですが…。
もしも再訪した時の為にも、地図的な資料ではどうなっているか、確認しておく必要があります。
Click!
5万分の1「千頭」より
まずは
5万分の1「千頭」から。
智者山軌道が現役の頃に作成された地図であり、ある意味
『最も正しい地図』だと言えなくもありませんが…問題は精度。
小長井河内川の線形を現在の航空写真などに重ねて比べてみると…ちょっと怪しいどころか、全然合わない!
その上、途中で分岐する
奥日掛林道も描かれていない(まだ作られていない)ので、参考にするには難しい代物か…。
得られる情報としては
「最初のヘアピンカーブが街道からかなり離れた位置にあること」でしょう。
しかし等高線と併せて考えると、ちょっと急勾配すぎるような…?
また、第2ヘアピンカーブ以降は奥日掛林道のラインに重なりそうな印象を受けますね。
地図中に紫線でなぞったラインは
小長井地区と対岸の
平栗地区を結んでいる徒歩道。
もしかしたら自分がアプローチに利用した道(木の杖が置いてあった)が、正にこれだったのでしょうか。
軌道跡と交錯するポイントで いくつもの道筋があるように見えたのも、これと関係しているのかも?
Click!
5万分の1「千頭」より
お次は白井氏のレポートに掲載されていたもの。
ベースになっているのは、
レポート作成当時の国土地理院地図でしょうか。
現行の川根東街道は
小長井〜連絡道分岐までが先行して開通しており、その先にある
馬路大橋までの区間は まだ工事中のようです。
現在は
馬路大橋を渡った地点から
馬路トンネルを通過して山の反対側へ抜ける道が建設中となっているわけですが、そもそも
このバイパス道(国道362号線改修工事)の着工は昭和57(1982)年。
実に50年以上経った今日でも未だ完成の日の目を見ない、
不遇の路線となっています。
【富士城バイパス計画】
長島ダム建設に端を発し、地元 本川根町(現:川根本町)と 国・県の思惑が絡み合ったこの一連の建設計画については、
山さ行がねが
様サイト内の、
「道路レポート 国道362号にあった“幻のループバイパス計画”」にて詳しく書かれていますので、ぜひご一読頂ければと思います。
話を戻して。
白井氏が描き加えた智者山軌道の線形は 実際に行った現地調査の結果を図中に描き込んだもの、のはず。
それならば と思い、前述の古地図「千頭」と重ねてみて
「さあどうだ!?」と検証しようとしたわけですが…。
回転しようが拡大縮小しようが、やっぱり合いませんな。
まあまあ、よくある事。
どうにか両地図を見比べてみると、
最初のヘアピンカーブの位置が大きく違っている事がわかります。
しかし第2ヘアピンカーブ以降においては、奥日掛林道に重なるようなイメージで描かれている点で共通しているようです。
これを素直に読み取るならば、この8の字カーブから先の智者山軌道は
「奥日掛林道に改修された」という結論になるのか。
白井氏レポートにあった、
智者山軌道のトラック輸送用代替路線としてこの林道が作られたという記述と矛盾しませんね。
最後にこれが、
amehata F.氏がGoogleMap上に投稿したストリートビューの撮影ポイントを国土地理院地図に載せ直したもの。
(GoogleMapには奥日掛林道が描かれていないため。そもそも、旧川根東街道の線形も全然違っていますが…。)
ただ GPSの精度が悪かったのか登録処理に問題があるのか?Cポイントは川の上にマークされていたため、写真などから判断して勝手に位置修正をさせて頂きました。
こうやってマークされた3点を眺めてみると、
古地図「千頭」に描かれたラインがかなり近いように見えますね。
調査前にこれやっとくんだったなぁ…。
Aポイントは自分がアプローチをした場所と同位置っぽいですね。
自分もここが軌道跡だと思ったわけですが、写真のようにかなりの急勾配なんだよなぁ…。
Bポイントは自分が辿りつけなかった場所。
石垣も写っています。
Cポイントに至っては、切通しまであるじゃあありませんか。
悔しい。
とまあそんなわけで、これらを統合して独自/勝手に線形を想像したラインがこちらになります。
割と良い感じかと思いますが、問題は最初のヘアピンカーブ。
やっぱりこれでは急勾配すぎるでしょうか?。
ポイントCの位置が正確ではないのが残念ですね…。
2番目のヘアピンカーブは傾斜のなだらかさを考えてもベストな位置取りかと思います。
少し膨らんで奥日掛林道に重なるライン取りは、思いあたるポイントが…ある!
そんな感じで、
次話へ!
第1話
第2話
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第5話
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第11話
第12話
TOP
探索!ウラ話
今回は
旧 川根東街道(連絡道以奥)と、
奥日掛林道の一部について。
街道上で撮った写真の中から、印象に残ったものを何枚かピックアップして載せてみたいと思います。
まずは前話で紹介した、下板橋。
昭和37(1962)年3月竣工。
今話序盤で掲載した馬路橋が
昭和32(1957)年10月竣功なので、それより5年も後になりますね。
架け替えした、とかでしょうか?
それと関連があるのかはわかりませんが、この橋、実はけっこう面白い形だったりします。
沢の下流側は道の線形に沿うようにカーブを描いていますが、上流側は沢に直交するように真っ直ぐ。
これは最初からこういう設計にしていたんでしょうか?
欄干の造りなどにも特に違和感はありませんでしたが…どういう理由なんだこれ?
小長井側の橋の袂には、立派な堂宇に納められたお地蔵様が。
しかし供えられた花は造花。
やはりこちらも訪れる人がいなくなって久しいようです。
こちらが、水の占有許可(?)についての標示。
建てられたのは
平成17(2005)年のようで、旧本川根町時代のもの。
ご覧のように、所々がかろうじて読めるかどうか、といった状態。
それでも沢の名前や ここから街道沿いにずっと繋がっている黒いホースの正体なども判明しました。
これは、
下板橋から上を眺めたところ。
現行の
川根東街道に架かる、その名も
【要害橋】。
『害』の字を橋の名前に使うってどうなんだ?と思ったりもしましたが、そうじゃない。
『要害』で調べてみれば、
「地勢がけわしく、敵を防ぐのに適している所」(by Goole)だそうな。
場所はわからなくなってしまいましたが、スリップ注意の標識。
しっかりと立ってはいますが、スリップよりも土砂崩れに注意した方が良さそうです。
これはおそらく
馬路橋から下流方向を撮影したもの。たぶん。
幽玄の渓谷、とでも表現しようか。
カレンダーにでも使えそうな最高の景色でした。
最後に、
奥日掛林道で見つけた変わった形の暗渠。
しかも2連続。
排水溝自体は普通ですが、蓋の形がおもしろい。
他にもどこかで見たことがあるような気がするんですが…どこだったかな…。