民営森林鉄道の先駆け
智者山軌道
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第1話 わたしを森林鉄道と呼んでいただこう。
「森林軌道の敷設は、大井川筋の山深い山林業においては緊急を要するの課題であった。
〜略〜 合計五`七六〇bとなるが、これが智者山・小長井間の森林軌道にあたるものであろう。
この森林軌道は、大井川筋最初の森林鉄道といえる。」
(本川根町史 通史編3 近現代より)
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ふるさと本川根 目で見るふるさと百年史より
智者山軌道とは、旧東川根村(現:榛原郡川根本町東藤川)に聳える
智者山周辺の広大な森林資源を搬出するべく敷設されていた森林軌道のこと。
小長井河内川に沿った路線であった事から
小長井河内森林軌道という名称が正しいようですが、このサイトでは通りの良い
智者山軌道と呼称していきます。
大井川筋における森林鉄道と言えば、対岸(西岸)の山々を長大路線で結んでいた
千頭森林鉄道(1930〜1968)が有名ですが、大きな違いは千頭林鉄によって搬出される木材が御料林(皇室所有の森林)からのもので公営事業(東京営林局の管轄)であったのに対し、智者山軌道は完全に民営であった点でした。
その歴史は古く、
明治22(1889)年に4人の事業家が
智者山林業所を設立し、雑木原生林を買い上げたのが始まりとされています。
その4人の名は、
山ア 淳一郎、高林 維兵衛、黒田 定七郎、小野田 五郎平。
この実業家達については、本川根町史には名前だけが書かれていました。
そして、
村外の者だとも。
どのような人物達であったのかを探るべく、関係のありそうな有力者を 一通り検索してみた結果がこちら。
・山ア 淳一郎
(掛川 山崎家9代目当主 ただ、年代が若すぎる…)
・高林 維兵衛
(浜松 日英水電取締役)
・黒田 定七郎
(菊川 黒田家20代目当主)
・小野田 五郎兵衛
(浜松貯蓄銀行・麦飯長者)
いずれも「同時期に同姓同名の有力者が存在した」という程度の情報でしかないのですが、全員が
県西部の者、というのは興味深い。
もちろん、全く無関係の可能性も大いにありますが。
果たして正解なのか?何か繋がりがあるのか?
今後も、調査を継続してみようと思います。
智者山林業の事務所は山林内に置かれ 事業の最初期は雑木を搬出していましたが、切り終わった後には杉と檜の苗木を植えて 一帯を一大植林地に仕立て上げたと伝えられます。
木材の搬出を行うに当たって、村内の道路網の整備も兼ねて まずは
東川根村保護土工森林組合を設立。
林道の整備を進めたのち、次の段階として
森林軌道の敷設に乗り出します。
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5万分の1「千頭」より
これは明治41(1908)年測量、昭和8(1933)年要部修正されたという
5万分の1「千頭」
画像クリック後の赤線が、智者山軌道の全容となります。
第1期工事として、
昭和5(1930)年に
小長井〜馬路間(3`320b)が開通。
翌年には
馬路〜土合間(2`450b)を第2期工事として敷設されました。
最終的に
計五`七六〇bとなったこの路線は、大井川筋最初の森林鉄道と言えます。
林業に鉄道輸送を導入した事は、それまで運輸の全てを水運に頼ってきたこの地方にとって大きな変革となりました。
小長井河内川は谷深く、
石積みや
桟橋を駆使しての難工事の連続だったそう。
起点の小長井の標高は
約300m、終点の土合の標高は
約500mで、全線の平均勾配は 計算では
35‰程度になりますね。
ドイツGHH製6kgレールを使用し、軌間は
762mmのナローゲージ。
特筆すべき点として、当時の民営森林鉄道としては珍しく
開設当初から機関車を導入していた事が挙げられるでしょう。
3〜4t程度のイギリス製ガソリン機関車で、大井川を舟で輸送し搬入したようです。(大井川鐡道はまだ千頭まで到達していなかった。)
戦時中は
ガソリン統制(昭和16(1941)年)により動力源を
木炭ガス化。
戦後に再び元のガソリンエンジンに戻しましたが、老朽化により 後にトヨタ製ガソリンエンジンに換装しています。
所有機関車はこれ1台のみで、6両のトロ空車を終点まで曳いて登り、帰りはトロ2両x3組が人力で制動しながらバラバラに降りてくる方式でした。
終点の土合では
索道と木馬を用いて集材。
馬路では
木馬での集材が行われていました。
起点の小長井まで運ばれた木材は
小長井製材所を経て、上の写真に写っている桟橋から大井川へ落とし込んで流送されました。
第1期工事の翌年、昭和6(1931)年には大井川鐡道本線が全通していましたが、最後まで大鉄による陸送はしなかったようです。
業績は極めて好調で、
昭和11(1936)年、大井川ダムの完成により流送が下火となってからも この軌道による搬出は続けられました。
しかし
昭和30(1955)年の
塩郷ダム建設により流送が完全に終了。
輸送コストが見合わなくなったためか、馬路の鉄橋を除く全ての資材を撤去・売却する形で廃止となりました。
その後も林業自体は続けられ、搬出路として軌道の代わりに
林道奥日掛線を整備、現在に至ります。
と なんとか沿革をまとめてみたわけですが、この智者山軌道について書かれた資料はとても少ない。
主に参考にさせて頂いたのは、
【本川根町史 通史編3 近現代】(本川根町史編さん委員会/平成15年)。
そしてもう1冊が、白井昭氏が寄稿した論文
【産業考古学 Vol.112 智者山森林軌道の調査報告】(産業考古学会・2004)です。
こちらは特に詳しく書かれており、現地調査の際の重要な道しるべとなりました。
この論文は、同氏が
【産業考古学 Vol.6 千頭森林鉄道と智者山軌道】(産業考古学会)に書いた内容に不備、誤記があるとして改めて書き起こされた内容となっています。
(今回、産業考古学 Vol.6 は 国立国会図書館へ複写を申し込み、産業考古学 Vol.112は産業遺産学会から産業考古学会報No112のバックナンバーを取り寄せました。)
また、
【特撰 森林鉄道情景】(西 裕之・2014)【第3章 森林鉄道に見られる諸施設】の中で、
【製材所】として
小長井製材所(P152・153)が取り上げられており、ここで数点の写真を見る事ができます。
他、ネット上においては
軽探団様、
田沼古道を歩く様などにて僅かに触れられていますが、特に驚いたのはGoogleMapのストリートビューに投稿をされている、
amehata F.氏。
主な活動場所がX(旧Twitter)であるようで まだコンタクトを取っていないのですが、2023年の投稿となっている写真は同軌道跡を辿ったもの。
今回の調査で自分が見つける事のできなかった風景も何点かありました。
と、こんな感じで 事前情報を頭に入れたところで、
早速、現地へ!
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